鎌倉 大仏 津波。 鎌倉大仏の大仏殿を流した大津波は想定しなくていいのか?: 三日画師のかすかだり

鎌倉大仏殿高徳院

鎌倉 大仏 津波

今の、鎌倉の三方を山囲まれた地域は、ずっと昔(縄文期の辺り)には、「古鎌倉湾」で海です。 鎌倉から内陸部となる、鎌倉への内陸からの玄関口になっている、今の大船あたりは、「古大船湾」と呼ばれる内海で、今の藤沢の市街地あたりから海が内陸部に入り込んでいました。 今の柏尾川の川岸あたりが、湾になる感じですね。 現在だと、丘陵地もあり周囲が小高い山やら、谷戸で囲まれる地域もあり、内陸に結構入った感じがする、海から遠いし一見すると山深い感覚もありますが、柏尾川と、柏尾川の下流の境川の川岸は、実はそうでも無いと。 この界隈の縄文時代の遺跡、貝塚やら、妙に内陸部に数多く位置して不思議に見えますが、そもそもが、内陸まで海だったということですね。 時代は進み、現在の大船の近くある、戦国期の玉縄城は柏尾川から相模湾へ抜けれる便の良さから、内陸にあるにも関わらず水軍の拠点としても機能したそうです。 大船の語源は、粟船であり、かつて粟を積んだ船が行き来した、それだけ水運の便が良かった名残とも言われます。 また、古大船湾の入口である藤沢に隣接する、今の、茅ヶ崎、平塚の市街地もかつては海です。 今だと、大分内陸に入った感覚がありますが、寒川神社や、相模国分寺あたりは、太古には、海に隣接をしていた、海に近いからからこその立地(人の往来が多く、交通便が良い)で、ここに建立とも言われます。 これらの地域は、そんなわけで、そもそもが、海抜が低い地域です。 鎌倉は、けっこうな被害が想定されています。 鎌倉市役所は、老朽化と手狭での移転計画がありますが、現在よりも、かなり内陸に入る、深沢地区とか想定されている様です(まだ、決定では無い見たい)。 ここも、かつては、古大船湾の沿岸ですけど、さすがにココまでは津波の範囲とはされていませんが.... 毎度お馴染み、「想定外」があるとすれば.... 日本史・世界史の元予備校講師です。 鎌倉の大仏 高徳院 の大仏殿が流されたとされているのは1498年の明応地震です。 実は、高徳院の大仏殿がこの地震で流されたという記録が残っていないので、たぶん・・・ということになっているのが史実です。 明応地震の震源地は遠州灘と考えられています。 この地震で湖だった浜名湖が津波で海とつながった汽水湖となりました。 浜松はとんでもない高くて強力な津波が押し寄せたのでしょう。 鎌倉を巨大津波が直撃した詳細データがあるのは関東大震災です。 関東大震災の震源地は相模湾です。 鎌倉に押し寄せた津波の高さは約6メートル以上。 鶴岡八幡宮の二の鳥居 鎌倉駅前近く まで津波が押し寄せたました。 関東大震災のマグニチュードは7. 9です。 東日本大震災のマグニチュードは9. マグニチュードが1違いますと、地震のエネルギーは約30倍違いますから、東日本大震災は関東大震災の30倍を超える超巨大地震なのです。 相模湾で東日本大震災レベルの地震が起きると、鎌倉の津波は簡単に10メートルは突破し、20メートル超の巨大津波になるのは必定でしょう。 相模湾一帯は壊滅的被害に見舞われ、平塚や小田原は地震波と津波で壊滅してしまうと思われます。 東日本大震災は震源地が日本海溝付近で、日本より相当離れていました。 このため地震自体の揺れによる被害は少なく、津波による被害がもっぱらとなりました。 相模湾はすぐ近くです。 東日本大震災クラスのプレート型地震が相模湾震源で発生すれば、何倍もの死者と被害が広まるでしょう。 首都東京の機能も失われるので、事実上の日本沈没と同じになると思われます。

次の

鎌倉市/鎌倉市津波ハザードマップ

鎌倉 大仏 津波

08 夕刊フジ 東日本大震災とそれに伴う巨大津波を受けて、国をはじめ各自治体で想定できる被害や津波の高さの研究が進んでいる。 そんななか、神奈川県が、独自に津波の高さを試算したところ、同県鎌倉市で14・4メートルに達する可能性があることが判明した。 鎌倉大仏から鶴岡八幡宮まで津波に丸飲みされる恐れがあり、衝撃的だ。 8日付の朝日新聞が報じたところでは、神奈川県の想定津波の見直しは、政府の中央防災会議の専門調査会が出した6月の中間報告に添ったもの。 古文書の記録や地質学上の記録などあらゆる可能性を踏まえ、最大級の津波を複数のパターンで試算した。 同県では鎌倉市の津波の高さをこれまで最大5メートル程度としていた。 今回は、それより高い津波が襲った「元禄地震」(1703年)のほか、「慶長地震」(1605年)、「明応地震」(1498年)を分析に加え、もっとも厳しい津波になる震源域を想定したという。 その結果、「慶長型」では鎌倉市に最大14・4メートル、「明応型」では12メートルで、新水域は相模湾に面する海岸から2キロに達し、鎌倉大仏、鎌倉駅、鶴岡八幡宮まで津波が押し寄せる恐れがあることが分かった。 過去の文献などを探ると、鎌倉大仏(高徳院)はもともと大仏殿のなかに収っていたが、明応地震による津波で大仏殿が流され、露座の姿になったとされる。 鎌倉市以外の想定津波の高さについては、藤沢市を従来の6メートル以上から10・5メートル、横浜、川崎市の1〜2メートルを4メートル、真鶴町を8メートル弱から8・8メートルとしている。 武蔵野学院大特任教授の島村英紀氏(地震学)は、「3・11タイプの地震が鎌倉付近から四国にかけて起きた1707年の宝永地震が再来する危険も日増しに高まっている。 鎌倉は三浦半島の少し西にあり、津波が駆け上りやすい地形なので、14メートル級を想定し備えておく必要がある。 この場合、大仏のような重いもの以外、すべて流されることもありうる」と警告している。 2011年12月08日 23:54:53: FNNシミュレーション 神奈川県沿岸部の津波浸水予測図の素案発表 鎌倉市で最大14. 4mの高さの津波を想定 8日、神奈川県の沿岸部の津波浸水予測図の素案が発表された。 神奈川県の黒岩祐治知事は「一番大変だったのは、どこまで 津波が 来たのかというところ。 ここまでしっかりと直視して、県民の皆さんに情報をきちっと提供すると」と話した。 鎌倉市で、最大14. 4メートルの高さの津波を想定した予測図が作成された。 県が試算していた以前の予測図と比較してみると、その被害面積は大きく広がり、内陸部およそ2kmまで及んでいる。 早稲田大学・柴山教授は「 津波は 鎌倉の大仏の近くまで。 鶴岡八幡宮は二の鳥居をすぎたあたりまでとなります。 これまでの試算ですと、5メートルくらい。 今回は最大14. 4メートル、平均で10メートル程度の津波」と話した。 以前の想定を倍以上、上回る津波の高さ。 「スーパーニュース」では以前、津波の高さを試算した津波浸水想定検討部会部会長の柴山教授が、鎌倉の津波の高さが、最大10. 3メートルになると試算した。 江ノ電の長谷駅周辺が浸水する様子などをシミュレーションした。 その時の試算よりも高い、最大14. 4メートルの津波。 柴山教授は「今回は、1,000年に1度の頻度で発生する可能性のある、最大級の津波というのも想定の中に入れた」と話した。 3月11日の東日本大震災以降、津波に対する考え方が大きく変わり、これまで以上の最悪のケースを想定したものだという。 現在、東京都でも来春に向け、専門家による見直しを進めるなど、首都圏での津波被害想定の見直しが進められている。

次の

〖鎌倉大仏〗高徳院の御朱印と「大佛殿」への並々ならぬこだわり

鎌倉 大仏 津波

こんにちは。 大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」 編集長の上田です。 金曜日は「鎌倉大家日記」です。 「鎌倉震災誌」という本があります。 昭和6年に当時の鎌倉町役場から発行されました。 いまも鎌倉の古本屋さんで見かけることがあります。 大正12年の関東大震災による鎌倉の被害と 復興について、 まとめられています。 関東大震災の震源地は相模湾でした。 震度は8クラスだったと言われており、 湾に面する鎌倉の全域は、一瞬のうちに壊滅しました。 当時、旧鎌倉市街は「鎌倉町」と呼ばれていました。 大船、腰越、深沢などの地域は、 まだこれに含まれてはいませんでした。 「鎌倉震災誌」によれば、 この鎌倉町の全戸数は4,183戸。 そのうち、 全壊 1,455戸 半壊 1,549戸 埋没した家 8戸 津波による流失 113戸 地震直後の火災での全焼 443戸 ほぼ壊滅といっていい状況です。 死者は412名、重傷者は341名にのぼったそうです。 また、 相模湾沿岸を襲った津波の高さは5~8メートル。 鎌倉では8メートル程度になったと推定されています。 津波は熱海・伊東以南の沿岸を浸しつつ北上し、 小田原付近で東へ折れたのち、 鎌倉を襲ったと考えられています。 小田原・大磯などの被害は少なかったのですが、 鎌倉方面はそうでなく、 主に、 海抜の低い江ノ電の長谷~由比ヶ浜あたり、 さらに材木座あたりが、甚大な被害を受けました。 流失家屋は繰り返しますが、113戸。 少な目にも思えます。 実は当時、 このあたりには国道134号線もまだ無く、 砂浜と松林が広がる中、家自体が少なかったとのこと。 そのため、 この程度で済んだようです。 津波は2回にわたって来襲しました。 被害は1回目よりも2回目の方が はるかに大きかったのだそうです。 海水が急激に沖へ引いたあと、 やがて、 黒褐色の大波が押し寄せてきた、といわれています。 こうした「鎌倉震災誌」などの記録を 当時の写真などのビジュアルもまじえて見ることができる サイトもあります。 特に鎌倉にお住まいの皆様など、 よろしければぜひご覧になってみてください。 「鎌倉震災誌」は、 こうした被災の歴史をもつ鎌倉の防災を考える上で、 これからも 市民の宝でありつづけることでしょう。 「鎌倉震災誌」に記された経験者の談話です。 その時砂浜には被災者が5、60名位づつ数個所に避難しており、 気がついた人々は辛うじて逃げ去った。 家屋や護岸が流された。 極楽寺 第2震の20分ほどのち、 海水は江の島の東端より三浦半島に向って 一直線を引いたと思われるあたりまで引き去っていた。 ところが見る見るうちに3m以上の大波が襲来し 由比ヶ浜方面に向ったが、その余波は極楽寺川にも浸入した。 再び海水は引き去り、夕方には500m位沖まで引いていた。 翌朝は潮が満ちていたが、砂浜は広がっていた。 極楽寺の人家はいずれも高所にあったためか、 ほとんど流されてはいなかった。 乱橋材木座 津波は最初、砂浜を没して岸壁に衝突し豆腐川に浸入したが、 急速に400m位沖合まで引き去った。 和歌江嶋が長く半島状に露出するとその約20分後再び来襲して、 豆腐川を中心として付近一帯の人家や岸壁を破壊した。 海水は補陀洛寺辺りまで浸入して電柱を没した。

次の