から ゆき さん。 からゆきさん

明治から大正にかけて、30万人もの日本の若い女性が売られたり騙されたりして、海外に売られていった。 TORA

から ゆき さん

奴隷市場 ストーンタウンのこの場所には1873年6月6日まで「奴隷市場」が存在していた。 アラブの奴隷商人達が捕らえたアフリカ人は一旦この場所に送られ、奴隷市場で売買されたのち奴隷船に乗せられ新大陸に送られた。 それがここ。 悲しい歴史を塗り替える為に現在は敷地内に「 大聖堂」が建てられている。 当時の様子を再現したモニュメント。 鎖で繋がれた人たちが穴の中に入れられている。 実際にこんな風に奴隷の売買が行われていたとか。 さらに奴隷達を収容していた地下室が現在も残されている。 天井が極端に低く、ほとんど日光が入らない小さな窓。 そんな重苦しい空気の中、鎖に繋がれ収容されていた。 これがたったの150年前まであったなんてね、、現在のザンジバル島は観光客で溢れリゾート化していってるけど、元々はこんな悲しい歴史のある島でした。 長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身の女性が多く、その海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。 「唐」は、ばくぜんと「外国」を指す言葉である。 からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。 彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(ピンプ)などと呼ばれた斡旋業者、女衒たちである・・・続く 「からゆきさん」は、ここザンジバルだけでなく中国、香港、フィリピン、ボルネオ、タイ、インドネシアなどアジア各地の他、シベリア、満州、ハワイ、北米に渡った日本人女性の例もあるとか。 しかも僅か50年前までここで生活していたとか。 現在はたくさんの土産物屋が入っている。 ちなみにTシャツを買いたくて色々なお店を回った結果、ここの1階にあるお店が一番安くしてくれました。 スタッフも「からゆきさん」の事を知っていて、日本人なら安くするよ!との事だった。 スポンサーリンク オールドアラブ砦 フォロダニ公園の目の前にある、かつての要塞「オールドアラブ砦」 1710年にアラブの攻撃で破壊されたとか。 現在はレストランやカフェ、バーなどが多数入っていて特にイベントが無ければ入場無料。 週末の夜にフォロダニ公園でシーシャを吸っていたら、ライブをやっているような感じだったので行ってみると入場料が必要だった。 結局入らなかったけど、週末はたまにイベントをやっているっぽい。 屋台で食べ歩き! 迷路のようなストーンタウンの中には色々な場所で屋台が出ている。 レストランで食べたり、フォロダニ公園の屋台で食べたりするより全然安いので節約したい人にはオススメ! 中でも一番オススメなのがコレ! イカの立ち食い! イカ以外に海老とか貝類もあるけどイカが最高に美味い。 もともと何かの味が染みているので、唐辛子を含んだ赤い塩を少し付けて食べるだけ。 値段はサイズ次第だけど、この写真の牛の串焼きなら1本200シリング 13円。 牛の串焼き10本で130円なんて最高だよね! サイズが大きいと1本で500シリングとか1000シリングとかもあったけど、要は言い値なので高いと思ったらディスカウントしてみてください。 ちなみに鶏は牛より若干高めです。 他にもいろいろな屋台が出てる。 多かったのはハンバーガーとかザンジバルピザかな。 これハンバーガー。 シンプルだけど安くて美味い。 こえはザンジバルピザ。 フォロダニ公園の何分の一かの値段で食べれる。 それと、、、なんだっけなこれ。 忘れた。 小遣い帳によると上の3つで4300シリング 295円 だったようです。 今回は以上~、ストーンタウンは次の記事で最後です。

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サンダカン八番娼婦館 からゆきさんの生きた場所

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概要 [ ] からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、などの貧しい家庭の娘たちだった。 彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(ぴんぷ)などと呼ばれた斡旋業者、たちである。 女衒の記録として長崎出身のによる『自伝』がある。 女衒たちは貧しい農村などをまわって年頃の娘を探し、海外で奉公させるなどといって、その親に現金を渡した。 女衒たちは彼女たちを業者に渡すことで手間賃を得た。 そうした手間賃を集めたり、投資を受けたりすることによって、みずから海外で娼館の経営に乗り出す者もいた。 こうした日本人女性の海外渡航は、当初においても「 娘子軍」 として喧伝され、末期にその最盛期をむかえたが、国際的に人身売買に対する批判が高まり、日本国内でも彼女らの存在は「国家の恥」として非難されるようになった。 英領マラヤの日本領事館はに日本人娼婦の追放を宣言し、やがて海外における日本人娼館は姿を消していった。 からゆきさんの多くは日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。 からゆきさんの主な渡航先は、、、、、、、などアジア各地である。 特に当時、アジア各国を殖民支配していた欧米の軍隊からの強い要望があった所へ多く派遣された。 [ ] また、さらに遠く、、、北米(など)、(など)に渡った日本人女性の例もある。 からゆきさんの労働条件 [ ] 『』に描かれた大正中期から昭和前期のボルネオの例では、娼婦の取り分は50%、その内で借金返済分が25%、残りから着物・衣装などの雑費を出すのに、月20人の客を取る必要があった。 「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」というから、検査費を合わせると月130人に相当する(余談だが、フィリピン政府の衛生局での検査の場合、週1回の検査、月1回の検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた)。 普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。 一泊10円、泊まり無しで2円。 客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった。 現地人を客にすることは好まれず、かなり接客拒否ができたと見られる。 しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、そんなときに休みたくても休みはなかったという。 語源 [ ] 森崎和江によれば明治時代の九州で、娼婦に限らず海外へ出稼ぎに行った男女を「からゆき」と呼んでいた(シベリア鉄道建設の工夫やハワイ移民も含む)。 大正時代頃から主に東南アジアへ行った娼婦を呼ぶようになった。 昭和10年代には映画『からゆきさん』 (1937年)の上映があり、また第2次世界大戦後は評論家のルポに「からゆきさん」の紹介があるが 、一般的に知られた言葉ではなかった。 広く知られるようになるのは『』(1972年)以降である。 派生語の「」は1980年代初めの造語で、後半、逆にアジア諸国から日本に渡航して、、、、などとして働く外国人女性を指して使われた。 関連文献 [ ]• 『村岡伊平治自伝』、、(文庫、、• 『サンダカン八番娼館 - 底辺女性史序章』、、()• 『「南進」の系譜』、<中公新書>、• 『からゆきさん』、、(朝日文庫、、)• 山崎朋子 『あめゆきさんの歌 : の数奇なる生涯』文芸春秋、1978年• 『じゃぱゆきさん - 女たちのアジア』、情報センター出版局、1983年(文庫、、)• 『北のからゆきさん』、共栄書房、1989年()• 倉橋正直 『からゆきさんの唄』、共栄書房、()• 倉橋正直 『島原のからゆきさん - 寄僧・広田言証と大師堂』、共栄書房、1993年()• 『ザンジバルの娘子軍』、社会思想社、1995年()• 『波よ語っておくれ - 北米からゆきさん物語』、、()• 『カナダ遊妓楼に降る雪は』』 、のち• 『からゆきさん - 海外〈出稼ぎ〉女性の近代』、共栄書房、2015年() 脚註 [ ] []• その稼ぎが資本となりまたその人数が日本人の進出の手がかりともなって、娘子軍と言われた。 日本国内では公娼制が維持されていた点に注意。 森崎和江『からゆきさん』(朝日文庫)p19-21。 鮫島麟太郎原作。 大正時代、南洋から故郷の島原へ戻った女性たちが、村人から「からゆきさん」と呼ばれて差別を受け、村から離れた場所に集まり住むシーンがある。 『キネマ旬報』601号。 大宅壮一『日本の裏街道を行く』(文芸春秋新社、1957年)、『日本新おんな系図』(中央公論社、1959年)。 関連項目 [ ]• - からゆきさんを題材にした映画。 外部リンク [ ]• 『姦淫及び売笑婦』沢田順次郎著 新興社, 1935.

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台湾人「19世紀の日本の娼婦『からゆきさん』が美しいけど悲しすぎる」

から ゆき さん

先日、島原と天草に訪問。 都道府県の区割を見るだけでは長崎県と熊本県に別れているものの、歴史的にはキリシタン弾圧やら島原・天草の乱などを経験してきたり、明治時代にはかなり貧しかった地域で人々が出稼ぎに行ったり、島原と天草は色々近い関係にある。 この地域を先日ようやく訪れる事が出来た。 天草の鬼池港から島鉄フェリーに乗って島原半島南部の口之津へ。 この口之津という所、江戸時代には南蛮船渡来の歴史があり、さらに明治時代には三井三池炭鉱の石炭積出港として栄えていた土地。 最近になって市町村合併で南島原市の一部になっている。 港に入る直前、左手に「口之津歴史民俗資料館」と看板が掲げられた洋館が見える。 フェリー乗り場から湾内をぐるっと回って資料館へ。 当然ながら口之津の歴史について扱われているのだが、主に明治時代の日本社会の裏側あたりの結構エグい展示物が見られるオススメスポット。 入館料200円を払いさっさと中に入りましょう。 明治32(1899)年に長崎税関口之津支庁として建てられた洋館が国から払い下げられ、資料館の一部に使われている。 「口之津税関跡」と書かれた石碑が建物の前に立っていた。 さすが貫禄のある建物です。 口之津が最も栄えていたのが明治時代半ば頃。 長崎県と言えば軍艦島(端島)でも知られる通り炭鉱開発がお盛んだった地域で、三菱財閥が端島や高島を開発していた。 それに三井財閥も対抗して開発していたのが福岡県大牟田にある三池炭鉱。 しかし当時の三池には小型船しか接岸できなかったため、三池炭鉱で採れた石炭は有明海の出口であるここ口之津で大型貨物船に移し替えていた。 口之津から運び出された石炭は上海向けに輸出されていたのだ。 中継港として沢山の労働者が住み、この小さな港に最盛期には12000人もの人口があったらしい。 しかし明治41(1908)年に三池港が新しく開港すると、口之津は急激に寂れていった。 資料館内に別館として「与論館」という建物がある。 与論と言えば鹿児島県最南端で、沖縄の方が全然近いよというあの島だ。 明治30(1897)年頃の口之津はとにかく労働者不足で、その供給源を南西諸島に求めていたところ、台風災害で深刻な飢饉に見舞われていた当時の与論島民が生活の糧を求めてとりわけ多く移住してきた。 口之津にあった貯炭場の労働者として暮らしていた与論島民の長屋(与論長屋跡)が与論館の内部に再現されている。 若干小奇麗に作られてるけど実際はかなり壮絶な住まいだったろうな。 言葉や文化の違いから与論島民は差別されたりもしながら過酷な重労働に従事してきたそうで。 それでも移住してきた与論島民はここに第二の故郷を作る覚悟で生きていたのだ。 さらに明治末期に三池港が開港すると口之津を離れて三池炭鉱のあった大牟田・荒尾周辺に再移住するようになった。 そんな与論島だが先日訪問した時に見てきたのが島で最も海抜が高い城跡にある地主神社の一角に建てられた口之津移住開拓民之碑。 約750人の与論島民を率いて自ら移住した当時の村長・上野應介翁を讃える石碑もある。 移住者はその後10年間で1200人余りとなり、この小さな島を飢饉から救ったのだ。 口之津と与論の関係は今も続いていて、南島原市と与論町が姉妹都市だったり双方の学校の交流イベントなど色々やってるらしい。 旧長崎税関跡(長崎県文化財)の建物の中も昔の生活用具なんかとともに税関時代の建物の名残りが留められていて素晴らしい。 最盛期の口之津港は長崎港に凌ぐ輸出高を誇っていた時代もあったのだ。 石炭が「黒いダイヤ」と呼ばれていた時代な訳だし、当時は凄かったんだろうな。 エリアから記事を探す• 110• 104• 117•

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