上原 良司。 脚光 歴史を彩った郷土の人々

上原 良司|安曇野ゆかりの先人たち

上原 良司

寅太郎は良司らに「うそを言うな。 自分の思ったこと、言いたいことはどんなことでも、誰の前でも隠さずにいうこと」を厳しく教えたという。 昭和4(1929)年、有明小学校に入学。 近くの乳房川での遊び、裏庭でのテニス、離れの一室での幻灯大会、お化け大会など、上原家では、近所の子供も集まり、良司は兄2人、妹2人ともども楽しんでいた。 「僕が先づ中学校へ来て驚いた事は、他の中学校にはないような、自治といふ精神や古い歴史がある」。 松本城二の丸にあった松本中学校(現松本深志高校)に、昭和10年に入学したばかりの良司の作文である。 その年7月21日から3日間、現在の校舎への引っ越しに追われた。 新校舎での授業開始は9月2日からだった。 「天守閣を見上げた我々も、こんどは天守閣を見下すようになった。 天守閣よ聞け、我が新校舎にはかなわないだろう」と良司は作文に書いた。 松本中学4年のときは友人と鉱物採集に熱中、5年のときは籠球(バスケットボール)部に所属した。 学校でも目立った生徒でなく、無口で控えめ、黒いマントを着て黒い風呂敷包みを持ち、ちょっとすました姿であったという。 12月1日、松本の歩兵第50連隊に入営し、初年兵としての生活が始まる。 19年2月特別操縦見習士官となり、熊谷陸軍飛行学校に入学、神奈川県厚木の相模教育隊で飛行操縦訓練に励んだ。 「長兄は陸軍、次兄は海軍」だから良司は航空を選んだという。 3月24日に群馬館林教育隊へ移り、基礎操縦教育が始まった。 館林教育隊は多くの教育隊のうち最も厳しいことで有名だった。 面会も外出もなく、10日に一度の休務日も、午前中は体育、昼食から夕食までが唯一の休憩時間だった。 家族の写真、お守り、千人針などすべて禁止、家族からの検閲済みの葉書3枚以下の所持だけが認められ、頻繁に検査があった。 面会禁止の通知をしなかったため、父寅太郎が面会に来たことがあった。 会えなかった良司は「手落で、貴重な時間を割いて来てくれた父上には気の毒であった」と日記に記した。 7月に卒業し、引き続き鹿児島県知覧の第40教育飛行隊、11月に佐賀県目達原第11練成飛行隊に入隊した。 良司が特攻隊員として出撃する前夜の5月10日、報道班員のひとりが鹿児島県知覧飛行場で、出撃する前の気持ちを書いてくれと良司に頼んだ。 このときの文章が「きけわだつみのこえ」で広く知られる「所感」である。 「一器械である吾人は何もいう権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです」「愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。 天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。 明日は出撃です」「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。 彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」 現代であればまだしも軍事体制下の当時、自由を標榜して逝った上原良司は希にみる青年であったといえる。 自由は勝利し、権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であっても必ずや最後には敗れる事は明白だと断言、真理の普遍さは歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくであろうと予断、自己の信念の正しかった事は祖国にとって恐るべき事であるとまで日本の行く末を危惧する心配り、若干22歳であったことを考えれば現代との隔世の感にほとほと恐懼してしまう。 末尾に配された「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます 彼の後姿は淋しいですが 心中満足で一杯です」に至ってはもはや論考する言葉さえ見いだすことができない。

次の

靖国神社には行かないよ ―― ある特攻隊員の遺書

上原 良司

上原 良司 うえはら りょうじ 特攻隊員として出撃前夜に書き残した「所感」が、敗戦後のわが国民に自由主義の国づくりを訴えたメッセージとして高く評価されている。 生年月日 1922年(大正11)9月27日 没年月日 1945年(昭和20)5月11日 関連地域 穂高(耳塚。 池田町出身。 ) 職業・肩書 「あゝ 祖国よ 恋人よ きけ わだつみのこえ」の「所感」が掲載される。 活躍年 昭和時代 ゆかりの分野 文化(文芸) 経歴 池田町中鵜鵜山に、医師をしている寅太郎の三男として生れました。 それから九州小倉・台湾と父親の転勤に伴い転任し、耳塚に移り、文化的な雰囲気の中に育ちました。 二人の兄に続いて、1935年(昭和10)に松本中学校(現深志高等学校)に入学し、1940年(昭和15)に卒業して、慶応義塾大学経済学部予科に入学、その後、本科経済学部に進みました。 しかし、1943年(昭和18)学徒出陣により松本第50連隊(歩兵150連隊)に入隊し、学業の道は断たれました。 1944年(昭和19)、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊に入校後、舘林教育隊で飛行操縦訓練を始め、極限の生活を体験し、自由主義の正しさを確信しました。 そして、1945年(昭和20)陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として沖縄嘉手納湾上の米海軍機動部隊に突入し、22歳の若さで戦死しました。 略歴譜 1922年(大正11)9月27日 0歳 池田町中鵜鵜山で、医師の父寅太郎・母よ志江の三男として生れる。 九州小倉・台湾と父親の転勤に伴い転任し、有明耳塚に移り、成長する。 1935年(昭和10) 松本中学校に入学する。 1940年(昭和15) 松本中学校を卒業する。 1941年(昭和16) 慶応義塾大学予科に入学する。 1943年(昭和18) 慶応義塾大学予科を繰上げ卒業し、同大学経済学部に進学する。 1943年(昭和18)12月1日 21歳 学徒出陣により、陸軍松本第50連隊(歩兵150連隊)へ入隊する。 1944年(昭和19)2月9日 21歳 熊谷陸軍飛行学校相模教育隊へ入校する。 1944年(昭和19)3月24日 21歳 舘林教育隊にて飛行操縦訓練をする。 1944年(昭和19)7月20日 21歳 熊谷陸軍飛行学校を卒業する。 1945年(昭和20)5月11日 22歳 陸軍特別攻撃隊第56振武隊員として、沖縄嘉手納湾上の米海軍機動部隊に突入し、戦死する。 参考文献 新版「あゝ 祖国よ 恋人よ きけ わだつみのこえ 上原良司」 編者 中島博昭 安曇野市立図書館.

次の

歴史秘話ヒストリア[特攻隊員]上原良司の遺書【所感】の内容!見逃し動画配信や再放送は?

上原 良司

寅太郎は良司らに「うそを言うな。 自分の思ったこと、言いたいことはどんなことでも、誰の前でも隠さずにいうこと」を厳しく教えたという。 昭和4(1929)年、有明小学校に入学。 近くの乳房川での遊び、裏庭でのテニス、離れの一室での幻灯大会、お化け大会など、上原家では、近所の子供も集まり、良司は兄2人、妹2人ともども楽しんでいた。 「僕が先づ中学校へ来て驚いた事は、他の中学校にはないような、自治といふ精神や古い歴史がある」。 松本城二の丸にあった松本中学校(現松本深志高校)に、昭和10年に入学したばかりの良司の作文である。 その年7月21日から3日間、現在の校舎への引っ越しに追われた。 新校舎での授業開始は9月2日からだった。 「天守閣を見上げた我々も、こんどは天守閣を見下すようになった。 天守閣よ聞け、我が新校舎にはかなわないだろう」と良司は作文に書いた。 松本中学4年のときは友人と鉱物採集に熱中、5年のときは籠球(バスケットボール)部に所属した。 学校でも目立った生徒でなく、無口で控えめ、黒いマントを着て黒い風呂敷包みを持ち、ちょっとすました姿であったという。 12月1日、松本の歩兵第50連隊に入営し、初年兵としての生活が始まる。 19年2月特別操縦見習士官となり、熊谷陸軍飛行学校に入学、神奈川県厚木の相模教育隊で飛行操縦訓練に励んだ。 「長兄は陸軍、次兄は海軍」だから良司は航空を選んだという。 3月24日に群馬館林教育隊へ移り、基礎操縦教育が始まった。 館林教育隊は多くの教育隊のうち最も厳しいことで有名だった。 面会も外出もなく、10日に一度の休務日も、午前中は体育、昼食から夕食までが唯一の休憩時間だった。 家族の写真、お守り、千人針などすべて禁止、家族からの検閲済みの葉書3枚以下の所持だけが認められ、頻繁に検査があった。 面会禁止の通知をしなかったため、父寅太郎が面会に来たことがあった。 会えなかった良司は「手落で、貴重な時間を割いて来てくれた父上には気の毒であった」と日記に記した。 7月に卒業し、引き続き鹿児島県知覧の第40教育飛行隊、11月に佐賀県目達原第11練成飛行隊に入隊した。 良司が特攻隊員として出撃する前夜の5月10日、報道班員のひとりが鹿児島県知覧飛行場で、出撃する前の気持ちを書いてくれと良司に頼んだ。 このときの文章が「きけわだつみのこえ」で広く知られる「所感」である。 「一器械である吾人は何もいう権利もありませんが、ただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです」「愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。 天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。 明日は出撃です」「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。 彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」 現代であればまだしも軍事体制下の当時、自由を標榜して逝った上原良司は希にみる青年であったといえる。 自由は勝利し、権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であっても必ずや最後には敗れる事は明白だと断言、真理の普遍さは歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくであろうと予断、自己の信念の正しかった事は祖国にとって恐るべき事であるとまで日本の行く末を危惧する心配り、若干22歳であったことを考えれば現代との隔世の感にほとほと恐懼してしまう。 末尾に配された「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます 彼の後姿は淋しいですが 心中満足で一杯です」に至ってはもはや論考する言葉さえ見いだすことができない。

次の