春日部 避難 所。 東日本大震災、体育館避難所で起きたこと

草加市指定避難所

春日部 避難 所

約10万人が避難所で生活したでは閉鎖は2カ月後だった。 岩手、宮城、福島の3県で約41万人、全国で計47万人が避難所生活をしたは、避難所閉鎖までで7カ月、で9カ月を要した。 での住民が避難したの避難所の閉鎖は2年9カ月後だった。 避難所の生活はどんな様子か。 改善は続けられてきたが、そもそも学校や公民館などは宿泊に適さない。 の平田京子教授(住居学)は、学生たちと震災の研究や実例からイラストつきの解説書を作った。 「生活の過酷さは経験しないと分からない点もあるが、どんな生活か事前に知って備えることが重要だ」と指摘する。 災害の発生間もないころは、多くの人が体育館などに集まり、それぞれが自由に過ごせる空間は非常に狭い。 眠るとき手足を伸ばせないこともある。 毛布や布団が足りず、カーテンやカーペットを防寒に使った例もあった。 食料や水などの配給が始まっても、回数が少なかったり、行列で何時間も待たされたりする。 暖房は制限され、トイレの水も足りず不衛生な状態が続くこともある。 被災者間のトラブル、お金や物が盗まれることもある。 体育館は、プライバシーが十分に確保されず、着替えにも不自由する。 布や段ボールで間仕切りをつくる工夫もされてきた。 避難所は、多くの人が集まるうえ、換気は不十分で空気が乾燥する。 では、が流行、肺炎で亡くなる人が多かった。 運動不足や狭い場所の生活も危険。 中越地震では、車の中で過ごし、で死亡する事例が相次いだ。 他人と寝食を共にする生活にストレスを感じる被災者も多い。 他人のせきやいびき、子どもの泣き声で眠れず体調を崩す人もいる。 中越地震で調査をした長岡技術科学大の中村和男名誉教授(人間工学)は「災害直後は危険から身を守る意識や衣食住に関心が高いが、時間がたつと、人間関係やプライバシーに関する不満を感じる人が増える」と話す。 への入居が始まると、仕事や生活など将来の不安が強くなる。 時期に応じた精神的なケアや、相談できる人がいるコミュニティーを維持できるかが重要だという。 では、高齢者や障害者など災害時に助けを必要とする人(要援護者)への支援のあり方も課題となった。 によると、岩手、宮城、福島の3県の死者のうち60歳以上は66.1%で、震災関連死と認定された死者のうち89.1%が66歳以上。 障害者のは全体の約2倍にあたる1.47%だった。 がの被災地に住む要援護者を対象にした調査では、避難所に行った要援護者の3割が「避難所生活の環境」を理由に退所した。 理由は「設備面の支障」「周りに迷惑がかかると感じた」「障害のある息子と避難所に行くのをためらう」「精神的に居づらい」など。 手すりやスロープ、障害者も使いやすいトイレなどがないと暮らしにくい。 持病がある人は、被災前の医療や福祉サービスが中断すると深刻な事態につながる。 病院や福祉施設の再開までの期間は「翌日~2週間」が最も多く、1~数カ月かかることもあった。 断水や停電でが受けられない例も相次いだ。 妊産婦は授乳できる場所や乳幼児向けの食事の確保が切実な問題だ。 1歳の子どもと避難した臨月の女性は1日に2回の食事のために野外で30分並んだ。 「寒い中、1歳の子を抱いて並ぶのは大変だった」と調査に答えた。 化され、専門のスタッフが配置された要援護者のための福祉避難所は整備途上で、一般の人の認知度も低い。 を受けて政府は昨年6月、災害対策基本法を改正。 福祉避難所の指定と避難所生活の環境改善を市町村に求める指針を策定した。 一時的に難を逃れる避難場所と、被災者が長期間にわたり生活する避難所を区別して指定するよう明確化。 他の自治体や事業所団体と事前の協定で、の搬送態勢を作るよう求めた。 避難所の運営は、当初は市町村職員が中心で、被災者の自主的な運営への移行が望ましいとした。 コミュニティーの維持や生活再建の意欲を高めるためだ。 (北林晃治) 京都大防災研究所教授 矢守克也さん 避難所は被災者にとって自宅。 本来、おや寝室があり、個人ごとの快適性が確保される場所でなければならない。 硬くて冷たい床の体育館が自宅だと言われてもむちゃな話だ。 将来の見通しもつかず、隣には家族の葬式を出さないといけない人もいる。 ホテル、公営住宅などをもっと活用する仕組みも考えた方がいい。 自宅を少し直せば暮らせる人を積極的に支援し、自宅での生活を早く再開できるようにすれば、行政の負担が減り、避難所に残った人の環境改善にもつながる。 避難所や避難場所は社会の縮図だ。 のころから障害者、外国人など多様な人がどう過ごすかが問題だった。 福祉避難所の重要性が認識され、最近は、女性の視点から避難所を考える動きもある。 のように他人にはわかりにくいが、生死にかかわり、数分単位の対応が必要なことがある。 普段から交流し、何が必要かを知らなければ、適切な対応ができない。 また、被災者は自宅や自動車内、テント、知人や親戚宅にもいる。 避難所外の被災者への福祉、医療、情報を同時に提供できる拠点の構築も課題だ。 まず、自分が一番守りたい人のことを考えて欲しい。 大切な人が1週間以上、避難所で暮らすことを思い浮かべ、何が必要か普段から備えてはどうか。 /安置所回る/仮設で孤立不安/心身とも心配 4:00 避難所の朝は早い。 ウグイスの鳴き声が目覚まし時計代わり。 早い人は周囲に迷惑をかけないよう、そろり、そろりと起き始める。 洗顔をして散歩に出かける。 7:00 朝食。 前の晩に用意したパンと牛乳という献立が多い。 《9日の朝食》ジャム・マーガリン付きパン、クロワッサン、牛乳、バナナ 8:00 朝礼は犠牲者への黙? (もくとう)から始まる。 対策本部長の 佐藤稲満さん(72)が「仮設住宅ができて入居するまであと1、2カ月。 がんばろう」とあいさつ。 大槌町を巡回する神奈川県警の警察官から報告があった。 「昨日、安渡3丁目で性別不明のご遺体を発見しました」 理容師 沢純子さん(43)は夫 豊明さん(47)と義父 鉄男さん(76)が行方不明のままだ。 3人で理容店を営んできた。 近所の人が集まるにぎやかな場所だった。 津波はすべてを流し去った。 朝礼で報告を聞き、遺体安置所を回る日々。 「早く見つかってほしいという気持ちと、見つかったら、そこで終わってしまうような気もする。 いてほしい、いないでほしい。 複雑な気持ちで安置所に行っている」。 そう言いながら、まぶたをぬぐった。 10:00 校庭では月内完成をめざし、7棟34戸の仮設住宅の建設が進む。 住宅は安渡地区全体でも90戸だけで、地区外の住宅に入居せざるを得ない避難者が出るのは確実だ。 釜石市の水産加工会社に勤める 黒沢節雄さん(56)は、流された家に家族、親族6人で住んでいた。 避難所の体育館でも、6人が肩を寄せ合って暮らしている。 建設のつち音を聞きながら 黒沢さんは「仮設ではバラバラに住むことになるだろう。 覚悟している」と話す。 漁師町特有の住民同士の絆の強さに、すべての人が身一つで避難してきたという平等感も重なり、安渡の避難者の連帯感は強い。 一時、プライバシーを確保しようと、空間を仕切る試みがなされた。 しかし、悪評で、間仕切りはすぐに撤去された。 小国チヱ子さん(63)は話す。 「互いに気心も知れ、寄り添うように暮らしている。 仮設では一人っきりになってしまうのではないか」 12:00 昼食。 ご飯、みそ汁に一品料理。 《9日の昼食》ご飯、インスタントのすまし汁、魚肉ソーセージ、フルーツヨーグルト 14:00 避難所生活が3カ月もたつと、肉体的にも、精神的にも極限の状態に追いつめられる避難者が出てくる。 校舎の一角にある「隔離室」には、これまで若い男女がそれぞれインフルエンザで収容された。 深夜に救急車で県立釜石病院に搬送されたケースが4回あった。 対策本部の 関洋次さん(61)は深夜の緊急事態に備え、避難所に入らずに車中泊を続けている。 「お年寄りが多く、24時間態勢で警戒している。 避難所に入ると機敏に対応できない」 午後に避難所で保健指導をした愛知県幸田町の保健師 白井みつよさん(51)。 「眠れない、いら立つといった相談が多い。 これから暑くなると衛生面が心配です」。 避難者の苦しみや悩みに耳を傾けた「傾聴ボランティアもりおか」の会長 藤原一高さん(58)。 「ストレスが胸の中におりのように沈殿している人が少なくない。 阪神大震災の孤独死の例があり、むしろ、仮設に移ってからの方が心配です」 17:00 夕食。 洋風の幕の内弁当、鶏のから揚げ、サバのみそ煮と、毎晩、一品のおかずに工夫がこらされる。 在宅の避難者を含めて約300食が用意される。 《9日の夕食》ご飯、みそ汁、サバみそ煮、トマト 資材を調達する 黒沢久さん(64)。 「難しいことは考えない。 おおざっぱにやろう、で乗り切ってきた」。 「まかない班」は5人。 まとめ役の 白銀富美子さん(66)。 「食材は限られ、野菜が少ないかもしれない。 食事が終わるたびに5人で知恵を出し合い、次のメニューを考える」 ぜいたくは言えない。 明日、生きるための食事が続けられている。 21:00 消灯。 また一日が終わり、3カ月を経過した。 本部長の 佐藤さんはこう振り返る。 「安渡の互助の結(ゆ)いの精神で、何とか乗り切ってきた。 でも、仮設に移った後が試練の本番なのかもしれない」 《1週間を1日に再構成》 記者は5月末から6月10日にかけ、延べにして約1週間、安渡小の避難所を運営している対策本部の了解を得て、避難所わきのテントで暮らし、避難者と食事をともにした。 この間の取材を、ある日の1日間として再構成した。 地面に敷かれたマットの上で、持参した寝袋に入った。 地面は硬く、手足は伸ばせず、当初はなかなか寝付くことができなかった。 たびたびトイレにいかなくて済むように、水分補給を我慢した。 避難所の方々も同じ思いをしながら3カ月間を過ごしたのだろう。 それでも慣れてくると、さほど気にならなくなった。 人間の柔軟な適応力というべきか。 しかし、高齢者や体の不自由な人たちにとっては、過酷な試練が続いている。 津波から紙一重の差で生存した人たちが、避難所や仮設住宅で亡くなるようなことがあってはならない。 テント暮らしをし、強く思った。 復興の動きとともに、「仮設後」も取材を続けたい。 (但木汎) 大槌町の避難所安渡小学校でペットの犬と猫が被災者の心を癒やしている。 安渡1丁目の佐々木一彦さん(63)は愛猫「タマ」とテント暮らしをしている=写真上。 当初、校舎内の避難所に同居していたが、苦情があり、避難所を出た。 猫が話し相手の生活は1カ月半になる。 佐々木さんは埼玉県に出稼ぎをし、マンションの型枠工事に携わっていた。 仕事が減ったこともあり、昨年12月半ば、タマと6年ぶりに帰郷した。 三毛猫の雑種で9歳ぐらいのメス。 4年ほど前の冬に、道路脇で拾った。 首輪があり、飼い主が捨てたらしい。 宿舎に連れ帰り、一人暮らしの話し相手になってきた。 3月11日、大きな揺れに、佐々木さんはタマだけを抱えて高台に避難した。 家は流された。 その夜から、安渡小の校舎内の避難所にタマと入った。 タマは人気者だった。 しかし、避難所生活が長引くと、猫と同居することに一部の人から苦情が寄せられたという。 間接的にその話を聞いた佐々木さんは、避難所を出てテント暮らしをする道を選んだ。 佐々木さんは「周りに気兼ねせずに気楽でいい」。 避難生活で体重が70キロから10キロ減った佐々木さんに対し、タマはみんなからエサをもらい丸々とした体形を維持している。 避難所の対策本部は「対策本部大臣」などに任命し、肩書の名札をつけた。 避難所で生活する黒沢節雄さん(56)の愛犬。 車中に泊まり、登下校する子どもらを送迎したり、避難者と散歩をしたり。 愛敬を振りまいている。 (但木汎)• 基地問題に揺れる沖縄。 何が起きているのか• 日本の空襲被害、300枚の写真や映像で• 被爆者はいま、核と人類の関係は…最前線を追う• 全国の鉄道ニュースを集めました• あの日、もしもスマホが…映像・音声で「再現」• 子育て世代向けのニューススタンド• 皇族方の知られざる日常、意外な素顔を紹介します• 京都の最新情報をいち早くお届けします• 阪神支局襲撃事件から30年超を時系列で追う• 「戦争を知らない」沖縄が写真でよみがえる• 原発の新規制基準とは、全国の原発の現状は• 過去に起きた災害を教訓に、将来の災害に備える• いくつになっても成長を願う、働く女子に贈る応援ページ• 東京オリンピックのニュースについてのページです• 被災地の復興の現状をお届けします.

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避難場所・避難所/春日部市公式ホームページ

春日部 避難 所

多くの人に助けられ過ごした時間です。 この場をお借りして、日本中の人に御礼を述べさせていただきます。 本来であれば、避難所運営の一例として記録と御礼だけに留めるべきことですが、次の万が一の時のために避難所運営の改善点とご支援をいただいた際に気になった点を記させていただきます。 地震発生、そのとき 両親と妻と一男二女の7人暮らしをしていました。 両親とも同じ米崎町生まれで、昭和35年のチリ地震津波の被害も経験しています。 妻は同じ岩手県内でも内陸の一関市生まれなので、結婚するまで津波に対する防災教育を受けずに育ちました。 震災時、子どもは小学校一年の長女と保育園年長組の次女は学校と保育園へ。 1歳6ヶ月の長男は自宅で妻と一緒でした。 父は会議のため市役所の近くにおり、母は体調がすぐれないということで、あの日は午後から布団に入っていました。 いつ発生するか分からない地震は、家族が揃っている時間を狙ってはくれないのです。 地震の揺れは海を伝わり、走っていた船さえも揺らしました。 揺れる船を操船していた自分には何が起きているか分かりませんでした。 プロペラにロープを巻き込んだような感じでした。 前進を停めても揺れはおさまりません。 船を静かにすることにより聞こえてきたのは、ポケットの中の携帯電話が発する緊急地震速報でした。 周りを見渡すと複数の土砂崩れが見えます。 私は土砂崩れの場所を暗記して119番通報しようとしました。 しかし、いつまで経っても収まらない揺れ。 「本物が来た」と感じました。 宮城県沖を震源とする地震は繰り返し発生しており、マグニチュード(以下Mと表記)7クラスの地震はいつ来てもおかしくないと言われていました。 前回の宮城県沖地震 1978年6月 から平成23年で32年と9ヶ月が経過し、十分にエネルギーが溜まっていると、浜で暮らす人間は認識していました。 そんな中での大きな揺れに、「津波も来る」と直感しました。 船は港を出たばかりです。 沖に避難することより港に戻ることを決めました。 5分ほどで港に戻り、船を碇につなぎ陸に上がりました。 作業場にいるはずの従業員5人はいませんでした。 見渡すと防潮堤の上からこちらを眺めています。 従業員に怪我はないかと確認し、自宅に戻るように言い、戻る際には渋滞も心配なので、街中を通らない道で帰るように伝えました。 私は、すぐに自宅へ戻りました。 地震の直後から心配していたのは、妻と1才の長男のことでした。 妻は一関市の生まれで、津波と無縁の生活をしてきました。 つまり津波に対する教育を受けずに育ったのです。 結婚後から何度か、「地震が発生したら自宅には戻るな。 高台のおじさんの家に集合だよ」と、話していましたが、津波の怖さを知らないのですから、どれほど伝わっているかも分かりません。 急いで家に帰ると、妻は自宅の二階にいました。 私の顔を見るなり「4時から皮膚科を予約しているんだけど、どうしよう」との言葉。 やはり、伝わっていませんでした。 妻には小学校の娘を迎えに行き、その後、高台のおじさんの家に行くように、絶対自宅には戻らないように話し、私は保育園の次女を迎えに行き、高台のおじさんの家に行きました。 「すぐ逃げろ、津波が来ている」 家族の安全を確保できたと思った私は、絶対にやってはいけない行動をしてしまいました。 津波の危険性のある自宅周辺に戻ったのです。 私は消防団ですので、津波注意報が発表された場合、近所の高齢者の家を訪ね、避難の確認をすることになっていました。 いろいろな所を廻ったので地震から30分は過ぎていたと思います。 その時には、津波がいつ来るかも分かっていませんでした。 その中で、ある高齢の女性の一人暮らしの家に行きました。 玄関に着くと「避難しました」の札が下げてありました。 結果、私はその札に助けられたと思います。 何も表示がなければ家を一周確認して歩いていたでしょう。 防潮堤からわずか50mの所ですが、周りの建物に阻まれて海も防潮堤も見えません。 今にして思えば、一分一秒を争う状況でした。 その玄関の札がなければ逃げ遅れていた可能性もあります。 近所の確認が済み、私は自宅に戻りました。 二階に上がり、何か持つ物はないかと考えながら周りを見渡します。 窓が開いていました。 妻が閉じ込められることを防ぐために開けたのだと思います。 その窓から防潮堤が見えます。 その防潮堤の上に船が見えました。 津波は防潮堤を超える所まで来ていたのです。 一瞬、何が起きているか理解できませんでした。 次の瞬間、階段を駆け下り車に飛び乗りました。 駐車場を出てすぐの所で、父と近所の人が話をしていました。 車の窓から「すぐに逃げろ。 津波が来ている」と叫んで避難を促しました。 後日、父から「あの時声をかけられていなければ、死んでいた」といわれました。 それほどギリギリのタイミングでした。 父も私も高台のおじさんの家に無事着くと、「津波が来た」との叫び声が聞こえてきました。 高台でしたが、念のため、家の後ろにある山にみんなで駆け上がりました。 駆け上がると、山の向こうはすでに津波が襲っていました。 陸前高田の観光名所の高田松原の見える場所でした。 高田町も米崎町も田んぼも商店街のあった場所も津波が襲い黒い煙が立ち上っていました。 大きな余震が何度も襲います。 地震に怯え震える娘を抱きしめながら「大丈夫。 大丈夫」と自分に言い聞かせるように繰り返していました。 どれくらい時間が過ぎたか分かりませんが、自分が見下ろしている津波の動きが止まり、少しずつ引き波に変わりだしたころ、「ここにいても情報も何もない。 みんなが集まっている場所に行かなければ」と考え、山を下り近くにある米崎中学校へと移動しました。 米崎中学校には大勢の人が避難していました。 まだ明るい時間でした。 200人以上いたと思います。 中学校へ着くと消防団の先輩が駆け寄って来ました。 「一男が見えないから流されたんじゃないかと心配していた。 よかった。 よかった」と言ってくれ抱き合いました。 中学校のグラウンドからは、自分の家やJR大船渡線の脇ノ沢駅があった場所が見えます。 まさに「あった」場所でした。 その惨状を見ながら自分の家は無くなったと確信しました。 地震発生後 地震発生直後、地域の人は一度、各地域の公民館に集まりました。 しかし、津波はその公民館さえも飲み込んだのです。 幸い消防団の誘導により避難していた人たちは、高台にある米崎中学校の校庭に集まりました。 その時の動画が消防団員により撮影され、Youtube によりいつでも見ることができます。 中学校では生徒が校庭に集まり家族の迎えを待っていました。 迎えが来た生徒は家族とともに帰り、家族が迎えに来ない生徒は避難して来た人たちと米崎中学校長の指示の元、水の確保や炊き出しを行いました。 中学生は校舎内から炊き出しに使えそうな鍋などを運び出し、大人は近所の知り合いを尋ね、米を譲ってもらうためにお願いしたり、消化栓から水を鍋に汲んだりしました。 近くの山から薪を集めて火を熾しごはんを炊き、おにぎりにして小さい子どもやお年寄りから順に配りました。 炊いたご飯ではたりず、大人は鍋の底に残ったおこげで空腹を癒しました。 3月の岩手は冬です。 体育館の中は厳しい寒さでした。 近所の方から来客用の毛布を借りて膝を抱えた「おしくらまんじゅう」状態で周囲を毛布で包みました。 夜中には何度も大きな余震が襲い、暗闇の中わずかな携帯電話の灯りを頼りにさらに高台に避難を繰り返し眠れない夜を過ごしました。 一夜明けてみると自分たちが避難していた体育館の壁や本校舎の壁に亀裂が走っています。 中学校の校長は「申し訳ないが、建物が危険で皆さんをここに置くわけにいかない」と判断されました。 何人かが町内を見て周り、米崎小学校の体育館が使用されていないことを確認し、全員で米崎小学校体育館に移動します。 移動の際には中学校長に許可を得て、体操のマット、柔道の畳、だるまストーブ(電気のいらない灯油ストーブ)も移動させました。 こうして、米崎小学校体育館での長い避難所生活が始まりました。 米崎小学校体育館避難所の初期(4日目まで) 3月12日、中学校から移動して来た人は200人を超えていたと思います。 室内でしたが、いつでもどこの出入り口からでも避難できるように土足で生活していました。 移動してすぐに確認したのは、トイレと水です。 体育館のトイレは合併浄化槽につながっています。 電気のない状態でトイレを流せば壊れる危険性もありました。 浄化槽の業者さんに問い合わせると、「水で流し込んでもらえば、なんとかなります。 定期的に見に行きますから」とのこと。 その日からバケツに水を汲み、大便をした時だけ水で流すことを決めました。 みんなで順番に近くの川から水を汲み、トイレを流しながら使っていました。 一方、飲食に使う水を、川から汲むわけにいきません。 調べて廻ると車で5分程度の所に2箇所、湧き水を汲める場所が見つかりました。 それぞれ、土地の所有者さんが落差を利用しホースをつないでくれていました。 水を運ぶ入れ物も、近所の農家さんがりんご畑に水を運ぶために持っていた500リットルのタンクを借りることができました。 そのタンクを軽トラに積み、毎日交代で朝と晩に水汲みして飲料水と調理用に使います。 次は、食事を確保しなければいけません。 校舎内にプロパンガスによる調理室がありましたが、鉄筋コンクリートの建物の中を鉄のパイプが配管されている設計で、地震で校舎にひびが入っている状態では怖くてガスを使うことができません。 電気が来ていないためガス漏れ警報機も作動しません。 幸い、100mほどの所に保育園がありました。 調理場もあります。 古い園舎でしたが、そのぶん、ガスの配管はむき出しで接続はゴムホースでした。 つなぎ目に洗剤を溶かした水を塗り、ガス漏れがないことが確認できたので、保育園の調理場でおかずと味噌汁を作り、避難した3月12日から暖かい食事を続けることができました。 被災した3日目には水・米・野菜・毛布といった個人レベルでの支援物資が届きました。 近くの工事現場に務めていた人が、大型の発電機を運んでくれました。 近所の炊飯器を2台持っているお宅から炊飯器を借りてきました。 発電機と米と炊飯器、米を炊くことができます。 しかし、200名に対して5合炊飯器6台。 フル回転しても全員にはご飯は届きません。 全員に届く頃には、次の食事の時間でした。 夕方には、被災を免れたものの電気がないために保管できなくなったということで、大船渡のお寿司屋さんから握り寿司が届けられました。 また、同じように大船渡から「かもめの玉子」も人数分いただきました。 寿司と甘いもの、この状況には贅沢すぎる食べ物です。 涙を流しながら皆で食べました。 4日目には自衛隊の第一陣が米崎小学校に様子見に来ました。 米崎小学校では、グラウンドを半分あけ、自衛隊が到着しだい活動できるように指示されました。 自衛隊はすぐに作業に取り掛かり、お風呂、大量の炊飯、洗濯設備を設置しました。 お風呂に入れるようになったのはそれから3日後ですが、ご飯はすぐに炊き上がりました。 暖かいおにぎりを人数分、皆で食べることができる。 炊事の担当をしていた人も一緒に食べることができる。 なによりの幸せでした。 おかずや味噌汁も欲しくなります。 この4日間、避難者みんなが自発的に炊事、掃除、物資の整理、修理、外来者対応などをしていました。 そうすると、自然と各作業の取り纏めと指示をする人が見えてきます。 総括として受付にいた私から見て、各分担の中心となる人物を一本釣りで集めて、運営役員を決めました。 運営役員 米小体育館避難所では、下記のように担当を配置しました。 ・会長 支援者さんとごあいさつするのが主な役割となるので、24時間避難所を離れずにいてくれる人。 ・副会長 会長の知り合いを選任。 ・渉外担当 普段から地域のスポーツや公民館活動で町内の部落会長や市役所に知人が多い人を選任 ・医療 避難所内に看護士OBが3人いましたので、その中から選任 ・調理 普段から大量の食事を作る仕事の人を探しましたが、該当者が見当たらなかったので、生活習慣病の予防の知識のある看護師さんを選任 ・製作 避難所内の便利機能製作を目的に大工さんを選任 ・事務局 記録や会議で決まったことの周知、借り受けた資機材やその燃料や物資の管理を担当、私が職務担当 他にも来ていただいたボランティアの方に、受け付けや物資搬入と整理のスタッフをお願いました。 もちろん、役員だけではなく、避難者も多くの作業をこなしました。 体育館入り口の下駄箱の増設から始まり、避難生活後半には体育館の脇に調理室を設置しました。 米崎小学校避難所運営で心がけたこと ここからは、実際に運営していく上で、心がけたことを紹介したいと思います。 (1)物資は見えるところに置く 「あります」と「ありません」を全員に知らせるためにすべての物資を見えるところに重ねておきました。 (2)役員は最初に物資を取らない 役員が決めたことに協力してもらうためには「役得」と思われないように行動する必要があります。 ですので、役員が先に物資を取らないと役員会で決め、周知もしました。 どんなに立派なことを言っても、「役得」だと思われたら、誰も耳を貸してくれなくなるでしょうから。 (3)決まったことの説明は全員が揃った時に行う 避難所にいる人たちのほとんどが、家族が行方不明になっていたり家が流されているために、捜索や片付けに行きます。 物資が届くたびに配布していたのでは、物資の配分に偏りができます。 ですので、いただいた物資はすべてステージや二階のギャラリーに重ねておき、今日は衣類の配布、明日は靴の配布などと、毎日夕方に時間を決めて配布しました。 そうすることにより、食事の支度や全員での掃除の時以外は自由に行動できるようになりました。 (4)持ち物による強弱を作らない まずは、携帯電話の充電器をすべて集めて、皆の携帯電話を事務局管理で充電しました。 全員から借りると、DoCoMo、au、softbankのガラケーとスマホ用と全てありました(当時はガラケー率が8割くらいで、充電器も統一されていませんでした)。 個人的に貸し借りしても良いのですが、毎回頭を下げて借りていると全体的に強弱が出てしまいます。 私たちは、なるべく持ち物による強弱を作らないように心掛けました。 要支援者への対応 <高齢者> 米小避難所では深夜徘徊をする人はいませんでしたが、体育館の階段を上がる際に手を貸す必要のある方がいました。 また、夜間にトイレに行くと戻るべき自分の家族が寝ている場所が分からなくなる方もいました。 <精神障害を抱えた方> 一人一役という考え方で、飲み物係を担当してもらいました。 避難して来た人は、トイレに行く回数が増えることを抑えるために飲み物を控える傾向にありました。 そこで、定期的に全員に声をかけて支援物資のお茶やスポーツドリンクなどを配布する係をしてもらいました。 <乳幼児> 自分の子どもも震災時に1歳6ヶ月だったので、子どもを連れての避難所生活の大変さを感じていました。 常に大人が離れられないことにより、皆が作業をしている時に同じ作業をできないこともストレスです。 ミルクから食べ物に変わる時期には、離乳食を用意しなければいけません。 夜泣きも、母親にも子育てをしていない世帯にもストレスです。 そこで、小学校から特別教室を一部屋借りて、子育て世代同士を一つの部屋に集め、お互いに助け合える部屋を作りました。 子育て世代は周りで他の子どもが泣いていても気にならないし、ミルクやオムツを差し伸べたりして助け合うこともできます。 ミルクもオムツも支援物資でしたので、誰の物でもなく、サイズごとに皆で使っていました。 緊張感とため息の入り混じった体育館と違い、子ども部屋は天使の遊ぶ部屋でした。 自分も疲れると子ども部屋へ行き、子どもの元気な声に癒されてきました。 困ったこと <寒さ> 3月11日は、陸前高田にとってはまだ冬です。 体育館は天井が高いのでストーブの熱も周りを暖めずに上に上ってしまいます。 半月ほどは毛布も十分でなく、寒さで眠れなくなる人が多かったことを覚えています。 <痛み> 避難所の中で困ったことの一つに痛みがあります。 ストレスにより高血圧になり頭痛を訴える人もいました。 困ったのは歯痛です。 頭痛であれば、救急車を呼ぶことも考えますが、歯痛で救急車を呼ぶわけにもいきませんし、どこの歯医者さんが受け入れているかの情報もありませんでした。 通常時に定期健診することの重要性を感じました。 <狭さ> 避難所での問題で上位にくるのが、プライバシーがないことと狭さです。 枕元(または足元)に着替えや飲み物などの個人の物を置くために身長より長めに場所を取りましたが幅は80cm程度です。 <ペット> ペットは家族と思っている人も少なからずいました。 しかし、狭い体育館にペットを入れることは多くのトラブルが予想されます。 ペットを車の中で飼うなどして対応してもらいました。 <市役所と勘違い> 陸前高田市役所は最上階まで津波に飲まれ、多くの職員を流されました。 市役所職員も市民である以上被災者なのです。 それでも、市役所では通常業務を含め震災対応と行方不明者の確認に尽力していたため、各避難所の運営や管理に人を割り付けることはできませんでした。 そこで、相談場所を探しあぐねた人が、小学校体育館に来ました。 行方不明の家族を探すため情報を求めたり、物資を求めたり、中には「自衛隊はいつ来るんだ」とか「役所は何をしているんだ」とクレームを言われたこともあります。 ここには被災者だけで市役所の人もいませんでしたし、市役所と自分たちのこと以外をやり取りする余裕などありませんでしたので、丁重にお断りしてお帰りいただきました。 食事について 避難所生活が始まった直後は「支援がいつまで続くかわからない」ということで、長持ちする食材をできるだけ使わないようにしていました。 結果、食事の内容が偏りました。 集団生活で怖いのは食中毒ですので、できる限り加熱し、肉は揚げ物にして食べました。 葉物野菜など痛みやすい食材は数も少なかったので優先して使いました。 しかし、毎日のように野菜が届けられるわけではありません。 一週間野菜なしという期間も当然あります。 半月が過ぎた頃には、食材の備蓄も増えたので、缶詰などで魚も食べるようになり、特に高齢者に喜ばれました。 また、どの順に食材を使うかにも悩みました。 人数も多い。 支援がいつまで続くのか分からない。 大量にカップラーメンが備蓄されていても200人で食べればあっと言う間です。 そして、人数が多いため、調理にも時間がかかります。 作りはじめから食事を配るまで2時間くらいは必要だったと思います。 冷蔵庫もないので、暖かい日は最初に作った物がだめになりますので、日中は支援物資のカップラーメンで過ごしたこともあります。 食事に関して困ったのはアレルギーです。 避難当初、小麦アレルギーの子どもを連れた家族がいました。 避難の最初には食材もなく対応できませんでした。 他の人が少しずつでもおかずを食べている時にその子はおにぎりだけしか食べられません。 申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、なんともなりません。 2~3日で親戚の家に避難場所を変えました。 食事について様々な支援をいただいたので、いくつか紹介したいと思います。 <食材の支援> ご支援で届けていただいた物に対して申し訳ない言い方かもしれませんが、必要なものがちょうど良い量で届くわけではありません。 長期保存を意識したカップ麺は多く届けていただきましたが、実際には、200人分のお湯を沸かすことは容易ではありません。 困ったのは、調味料が少ないことです。 塩分の多い食事は体に良くないとは言われますが、塩分の少ない食事は食欲をそそりません。 なにせ200人分ですから、食堂で消費するくらい砂糖、塩、酢、しょうゆ、味噌を必要とします。 調味料の種類が少ないと作れる料理の種類も限られます。 <来なかった炊き出し> 支援者さんによる炊き出しは、一度避難所に来て顔を合わせながら日程を調整します。 しかし、何度か待てど暮らせど来ないということがありました。 せめて、来ないことが確認できれば対応のしようもありますが、携帯電話の電波が届いたのは震災から一ヶ月後です。 連絡の取りようがありません。 来る前にどこを周っているのかも知らされていないので、こちらから確認に行くこともできません。 ある程度の時間まで待って、来ないと判断した段階で「今日は休める」と思っているお母さんたちにお願いし、簡単にできる夕飯を作ってもらったことも一度や二度ではありません。 後日確認すると昼に炊き出しした避難所で、近隣の人も集まり、予定数の倍以上が提供されて米小に来る分の材料と時間がなくなったとのことでした。 <困った炊き出し支援> ある時には、夕飯時に炊き出しに来た団体が出してくれた料理がとても美味しい。 しかも品数も量も多くしばらくぶりに満腹と言う幸せを感じました。 しかし、おかしい。 それほど大量の食材を持ってきた様子はなかったのです。 気がつくと、翌日用に仕込んでおいた芋や葉物が全てなくなっていました。 翌々日用の缶詰もありません。 こちらのストックを全て使われてしまったのです。 毎日やりくりして、2~3日先までの食材を計算して調理していたスタッフは、気が抜けてしまいました。 しかも、なかなか手に入らない調味料もほとんどなくなっていました。 善意からの行動とはいえ、スタッフの一人が「二度と来ないでください」と叫んでいました。 ストックしていた食材や調味料を支援者に使われて予定が変わった。 食材の少ない中、これがどれほど調理班の心を折ったか。 数日は具のない味噌汁とご飯と味の薄い料理が続きました。 ありがたかった支援と困った支援 全ての物資がありがたいものでした。 ただ、時間とともにニーズは変わっていきます。 避難所の初期は、毛布、食料、水、着替え、医薬品、女性用品、3月ですので電気を使わないストーブが求められました。 数日たつと、長期戦を意識した物資を必要とします。 米、缶詰、マスク、枕、ゆるい衣類 寝るとき用 、サランラップ、などです。 さらに数日が過ぎると、靴 スニーカーなど 、長靴 捜索用 、体育館の中で寝るスペースを仕切るもの、味の濃い食品、甘い物、と生活にアクセントを求めるようになりました。 その中で、自分たちでも思いもしなかった支援があります。 阪神淡路大震災や中越地震の経験者から、名刺入れやノートと筆記具、マジックペン、模造紙、パソコンが届きました。 最初は、生きることに精一杯でしたが、避難所内の記録や周知に威力を発揮しました。 コーヒー、ビール、タバコ、テレビ、マンガ、など、贅沢と思い、こちらから求めることもできないような物も届き嬉しかったです。 <どんな支援が必要?> 支援を受ける際に「何に困っていますか?何が必要ですか?」という問いが一番困ります。 答えは「全てに困っています。 あなたが生活する際に必要な物全てが無いのです。 」です。 どの団体にも得意分野と不得意分野があるはずです。 学生団体のように「お金はないけど人数と力はあります」という団体と、企業のCSRではできることは違うでしょう。 団体の目的と得意分野を伝えていただくとこちらも具体的なお願いをすることができます。 たとえば、難民支援協会は、普段から困っている方の支援をしているため、被災地でも丁寧に聞き取りをしてくださりました。 特に法律と会計の専門家を何人も連れてきたり、女性特有の問題にいち早く取り組まれていました。 また、Save the Children JAPAN は米小避難所に10日目あたりから来ていただき、子どもたちと遊んだり子どものために必要な物を届けていただきました。 避難所の数が多く、全てを一つの団体で見ることはできなかったので、できるだけ多くの避難所に目が届くようにと子ども支援団体どうしが分担を決めて活動をしていたと聞いています。 他にも、体育館の中で運動をしなくなる人、狭さで体調を壊す人が出ることを心配して、継続的に体操を指導しに来てくださった人もいます。 やはり、活動の目的と規模が分かると避難しているグループも頼みやすかったことを覚えています。 様々な方から支援をいただきましたが、中には少しだけ「困った」支援もありました。 <物だけ届いて管理する人がいない配布会> 衣類販売をしている業者さんが大型トラックで衣類を届けてくださったことがあります。 町内全体にチラシで「米崎小学校前で衣類の配布をします。 」とお知らせが回りました。 当日になりトラックが到着し衣類を降ろすころには長蛇の列ができていましたしかし、担当者がいません。 ゴーサインを出す人も一人何枚と伝える人もいません。 最初に並んだ人が勝手にとり始めようとしますが、後から並んだ人は気が気ではありません。 「数を決めろ」「時間を決めろ」と騒ぎ出します。 中には割り込む人もいて、騒ぎが大きくなります。 体育館避難所に来た物ではありませんが、自分たちが人の整理と配布の管理にあたります。 「何をしていたんだ」「早くしろ」「説明が後ろまで聞こえない」との怒声が飛びました。 新聞やテレビでは「被災地では皆、混乱の中、整然としていました」と流れていたようですが、管理者のいる所では整然としていましたが、そうでない所では一度混乱が起きると整然とするのには大変な手間と時間が必要でした。 <情報が守られなかった支援> アマチュア傾聴ボランティアによるコンプライアンスの問題がありました。 避難所でも仮設住宅でも「お話し相手」というボランティアが来ていました。 しかし、前の家族に聞いた内容を次の家族に話してしまう。 もっと酷いのは、許可もなく活動報告書としてまとめられたものもありました。 家族や友人を失った時の混乱や相続等の金銭トラブルといった、非常に個人的な情報すら報告されていました。 個人の名前は伏せていますが、読む人が読めば誰が話した内容か分かります。 それが多くの人に公開されるのです。 私達は、すぐに発行の停止をもとめ、「なぜ、そんなことをするのか」と聞きました。 答えは「助成金で活動しているので、ある程度具体的な活動実績書類を作る必要がある」との事でした。 話す側は、外部に漏れるとは思わずに話しています。 ましてや、同じ避難所の中にいる人に話されるなど想像もしません。 傾聴ボランティアを取りまとめる人は、まず、話してよいことと話してはいけないことの教育をしてから活動に取り組んで欲しいと思いました。 しかし、東日本大震災を境に「減災」という言葉が使われるようになりました。 減災と防災の違いはなんでしょうか。 「防災」は命と財産のすべてを守るということを目的としています。 「減災」は、財産を守ることを一時的にあきらめて、命を守ることに注力しています。 東日本大震災の時も、一度は避難したのに「財布を忘れた」「位牌を」と自宅に向かい、二度と戻らなかった人が何人もいました。 では、どうしたら「減災」ができるのでしょうか。 まずは、意識を変えることだと思います。 まず、自宅は絶対的安心な場所ではないという意識をもつ。 自宅はプライバシーを守れ、生活に必要な物が揃っています。 ですが、立っているその場所が安全とは限りません。 崖の周辺、川の近く、海の近く、家がどんな場所にたっているのか、そして避難可能な近くの施設を知ってください。 次に、災害時に行政と自衛隊がすべてを何とかしてくれるという考えは捨ててください。 災害を行政や自衛隊がどうすることもできません。 地震の際に倒れてくる家具を自衛隊が支えることはできないのです。 最後に、観天望気の知識を身につけ、家具を固定し、常に災害警報の情報に気を配ること。 「観天望気」というと難しそうに感じるかもしれませんが、空が急に黒くなれば誰でも屋根のあるところに入ろうとします。 それが観天望気の基本です。 ときどき家族と一緒に空を見上げて「雨が降りそうだから天気予報を確認してみよう」と言うところから観天望気は始まります。 東日本大震災は、「宮城県沖地震」という呼び名で早くから予告されていました。 それは、関東直下地震も東海・東南海・南海トラフも同じです。 いつか来ると予告されています。 ですので、備えて欲しいと願います。 そしてもし地震が起きた時は、逃げる選択肢を捨てないでください。 「ここは20mも津波が来るのだから逃げても無駄」と考えるのではなく、もしかしたら津波の大きさは2mかもしれない。 少し逃げれば助かるかもしれません。 東日本大震災の後、助かった高齢者を中心に「自分は歳だから次は逃げなくても良い」と聞くことがあります。 足腰の弱い人、寝たきりの人を助けようとして命を危険にさらした消防団員や近所の人のことを思い出してほしいです。 逃げないという選択肢は、他人も危険に晒すということを頭に入れて欲しいのです。 減災は、行政・地域・個人のすべての単位で取り組むことで飛躍的に発揮されます。 「誰かがやってくれる」では家族や大切な人を危険に晒すということを知って欲しいです。 東日本大震災で大切な友を失った人間からのお願いです。

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避難場所・避難所

春日部 避難 所

約10万人が避難所で生活したでは閉鎖は2カ月後だった。 岩手、宮城、福島の3県で約41万人、全国で計47万人が避難所生活をしたは、避難所閉鎖までで7カ月、で9カ月を要した。 での住民が避難したの避難所の閉鎖は2年9カ月後だった。 避難所の生活はどんな様子か。 改善は続けられてきたが、そもそも学校や公民館などは宿泊に適さない。 の平田京子教授(住居学)は、学生たちと震災の研究や実例からイラストつきの解説書を作った。 「生活の過酷さは経験しないと分からない点もあるが、どんな生活か事前に知って備えることが重要だ」と指摘する。 災害の発生間もないころは、多くの人が体育館などに集まり、それぞれが自由に過ごせる空間は非常に狭い。 眠るとき手足を伸ばせないこともある。 毛布や布団が足りず、カーテンやカーペットを防寒に使った例もあった。 食料や水などの配給が始まっても、回数が少なかったり、行列で何時間も待たされたりする。 暖房は制限され、トイレの水も足りず不衛生な状態が続くこともある。 被災者間のトラブル、お金や物が盗まれることもある。 体育館は、プライバシーが十分に確保されず、着替えにも不自由する。 布や段ボールで間仕切りをつくる工夫もされてきた。 避難所は、多くの人が集まるうえ、換気は不十分で空気が乾燥する。 では、が流行、肺炎で亡くなる人が多かった。 運動不足や狭い場所の生活も危険。 中越地震では、車の中で過ごし、で死亡する事例が相次いだ。 他人と寝食を共にする生活にストレスを感じる被災者も多い。 他人のせきやいびき、子どもの泣き声で眠れず体調を崩す人もいる。 中越地震で調査をした長岡技術科学大の中村和男名誉教授(人間工学)は「災害直後は危険から身を守る意識や衣食住に関心が高いが、時間がたつと、人間関係やプライバシーに関する不満を感じる人が増える」と話す。 への入居が始まると、仕事や生活など将来の不安が強くなる。 時期に応じた精神的なケアや、相談できる人がいるコミュニティーを維持できるかが重要だという。 では、高齢者や障害者など災害時に助けを必要とする人(要援護者)への支援のあり方も課題となった。 によると、岩手、宮城、福島の3県の死者のうち60歳以上は66.1%で、震災関連死と認定された死者のうち89.1%が66歳以上。 障害者のは全体の約2倍にあたる1.47%だった。 がの被災地に住む要援護者を対象にした調査では、避難所に行った要援護者の3割が「避難所生活の環境」を理由に退所した。 理由は「設備面の支障」「周りに迷惑がかかると感じた」「障害のある息子と避難所に行くのをためらう」「精神的に居づらい」など。 手すりやスロープ、障害者も使いやすいトイレなどがないと暮らしにくい。 持病がある人は、被災前の医療や福祉サービスが中断すると深刻な事態につながる。 病院や福祉施設の再開までの期間は「翌日~2週間」が最も多く、1~数カ月かかることもあった。 断水や停電でが受けられない例も相次いだ。 妊産婦は授乳できる場所や乳幼児向けの食事の確保が切実な問題だ。 1歳の子どもと避難した臨月の女性は1日に2回の食事のために野外で30分並んだ。 「寒い中、1歳の子を抱いて並ぶのは大変だった」と調査に答えた。 化され、専門のスタッフが配置された要援護者のための福祉避難所は整備途上で、一般の人の認知度も低い。 を受けて政府は昨年6月、災害対策基本法を改正。 福祉避難所の指定と避難所生活の環境改善を市町村に求める指針を策定した。 一時的に難を逃れる避難場所と、被災者が長期間にわたり生活する避難所を区別して指定するよう明確化。 他の自治体や事業所団体と事前の協定で、の搬送態勢を作るよう求めた。 避難所の運営は、当初は市町村職員が中心で、被災者の自主的な運営への移行が望ましいとした。 コミュニティーの維持や生活再建の意欲を高めるためだ。 (北林晃治) 京都大防災研究所教授 矢守克也さん 避難所は被災者にとって自宅。 本来、おや寝室があり、個人ごとの快適性が確保される場所でなければならない。 硬くて冷たい床の体育館が自宅だと言われてもむちゃな話だ。 将来の見通しもつかず、隣には家族の葬式を出さないといけない人もいる。 ホテル、公営住宅などをもっと活用する仕組みも考えた方がいい。 自宅を少し直せば暮らせる人を積極的に支援し、自宅での生活を早く再開できるようにすれば、行政の負担が減り、避難所に残った人の環境改善にもつながる。 避難所や避難場所は社会の縮図だ。 のころから障害者、外国人など多様な人がどう過ごすかが問題だった。 福祉避難所の重要性が認識され、最近は、女性の視点から避難所を考える動きもある。 のように他人にはわかりにくいが、生死にかかわり、数分単位の対応が必要なことがある。 普段から交流し、何が必要かを知らなければ、適切な対応ができない。 また、被災者は自宅や自動車内、テント、知人や親戚宅にもいる。 避難所外の被災者への福祉、医療、情報を同時に提供できる拠点の構築も課題だ。 まず、自分が一番守りたい人のことを考えて欲しい。 大切な人が1週間以上、避難所で暮らすことを思い浮かべ、何が必要か普段から備えてはどうか。 /安置所回る/仮設で孤立不安/心身とも心配 4:00 避難所の朝は早い。 ウグイスの鳴き声が目覚まし時計代わり。 早い人は周囲に迷惑をかけないよう、そろり、そろりと起き始める。 洗顔をして散歩に出かける。 7:00 朝食。 前の晩に用意したパンと牛乳という献立が多い。 《9日の朝食》ジャム・マーガリン付きパン、クロワッサン、牛乳、バナナ 8:00 朝礼は犠牲者への黙? (もくとう)から始まる。 対策本部長の 佐藤稲満さん(72)が「仮設住宅ができて入居するまであと1、2カ月。 がんばろう」とあいさつ。 大槌町を巡回する神奈川県警の警察官から報告があった。 「昨日、安渡3丁目で性別不明のご遺体を発見しました」 理容師 沢純子さん(43)は夫 豊明さん(47)と義父 鉄男さん(76)が行方不明のままだ。 3人で理容店を営んできた。 近所の人が集まるにぎやかな場所だった。 津波はすべてを流し去った。 朝礼で報告を聞き、遺体安置所を回る日々。 「早く見つかってほしいという気持ちと、見つかったら、そこで終わってしまうような気もする。 いてほしい、いないでほしい。 複雑な気持ちで安置所に行っている」。 そう言いながら、まぶたをぬぐった。 10:00 校庭では月内完成をめざし、7棟34戸の仮設住宅の建設が進む。 住宅は安渡地区全体でも90戸だけで、地区外の住宅に入居せざるを得ない避難者が出るのは確実だ。 釜石市の水産加工会社に勤める 黒沢節雄さん(56)は、流された家に家族、親族6人で住んでいた。 避難所の体育館でも、6人が肩を寄せ合って暮らしている。 建設のつち音を聞きながら 黒沢さんは「仮設ではバラバラに住むことになるだろう。 覚悟している」と話す。 漁師町特有の住民同士の絆の強さに、すべての人が身一つで避難してきたという平等感も重なり、安渡の避難者の連帯感は強い。 一時、プライバシーを確保しようと、空間を仕切る試みがなされた。 しかし、悪評で、間仕切りはすぐに撤去された。 小国チヱ子さん(63)は話す。 「互いに気心も知れ、寄り添うように暮らしている。 仮設では一人っきりになってしまうのではないか」 12:00 昼食。 ご飯、みそ汁に一品料理。 《9日の昼食》ご飯、インスタントのすまし汁、魚肉ソーセージ、フルーツヨーグルト 14:00 避難所生活が3カ月もたつと、肉体的にも、精神的にも極限の状態に追いつめられる避難者が出てくる。 校舎の一角にある「隔離室」には、これまで若い男女がそれぞれインフルエンザで収容された。 深夜に救急車で県立釜石病院に搬送されたケースが4回あった。 対策本部の 関洋次さん(61)は深夜の緊急事態に備え、避難所に入らずに車中泊を続けている。 「お年寄りが多く、24時間態勢で警戒している。 避難所に入ると機敏に対応できない」 午後に避難所で保健指導をした愛知県幸田町の保健師 白井みつよさん(51)。 「眠れない、いら立つといった相談が多い。 これから暑くなると衛生面が心配です」。 避難者の苦しみや悩みに耳を傾けた「傾聴ボランティアもりおか」の会長 藤原一高さん(58)。 「ストレスが胸の中におりのように沈殿している人が少なくない。 阪神大震災の孤独死の例があり、むしろ、仮設に移ってからの方が心配です」 17:00 夕食。 洋風の幕の内弁当、鶏のから揚げ、サバのみそ煮と、毎晩、一品のおかずに工夫がこらされる。 在宅の避難者を含めて約300食が用意される。 《9日の夕食》ご飯、みそ汁、サバみそ煮、トマト 資材を調達する 黒沢久さん(64)。 「難しいことは考えない。 おおざっぱにやろう、で乗り切ってきた」。 「まかない班」は5人。 まとめ役の 白銀富美子さん(66)。 「食材は限られ、野菜が少ないかもしれない。 食事が終わるたびに5人で知恵を出し合い、次のメニューを考える」 ぜいたくは言えない。 明日、生きるための食事が続けられている。 21:00 消灯。 また一日が終わり、3カ月を経過した。 本部長の 佐藤さんはこう振り返る。 「安渡の互助の結(ゆ)いの精神で、何とか乗り切ってきた。 でも、仮設に移った後が試練の本番なのかもしれない」 《1週間を1日に再構成》 記者は5月末から6月10日にかけ、延べにして約1週間、安渡小の避難所を運営している対策本部の了解を得て、避難所わきのテントで暮らし、避難者と食事をともにした。 この間の取材を、ある日の1日間として再構成した。 地面に敷かれたマットの上で、持参した寝袋に入った。 地面は硬く、手足は伸ばせず、当初はなかなか寝付くことができなかった。 たびたびトイレにいかなくて済むように、水分補給を我慢した。 避難所の方々も同じ思いをしながら3カ月間を過ごしたのだろう。 それでも慣れてくると、さほど気にならなくなった。 人間の柔軟な適応力というべきか。 しかし、高齢者や体の不自由な人たちにとっては、過酷な試練が続いている。 津波から紙一重の差で生存した人たちが、避難所や仮設住宅で亡くなるようなことがあってはならない。 テント暮らしをし、強く思った。 復興の動きとともに、「仮設後」も取材を続けたい。 (但木汎) 大槌町の避難所安渡小学校でペットの犬と猫が被災者の心を癒やしている。 安渡1丁目の佐々木一彦さん(63)は愛猫「タマ」とテント暮らしをしている=写真上。 当初、校舎内の避難所に同居していたが、苦情があり、避難所を出た。 猫が話し相手の生活は1カ月半になる。 佐々木さんは埼玉県に出稼ぎをし、マンションの型枠工事に携わっていた。 仕事が減ったこともあり、昨年12月半ば、タマと6年ぶりに帰郷した。 三毛猫の雑種で9歳ぐらいのメス。 4年ほど前の冬に、道路脇で拾った。 首輪があり、飼い主が捨てたらしい。 宿舎に連れ帰り、一人暮らしの話し相手になってきた。 3月11日、大きな揺れに、佐々木さんはタマだけを抱えて高台に避難した。 家は流された。 その夜から、安渡小の校舎内の避難所にタマと入った。 タマは人気者だった。 しかし、避難所生活が長引くと、猫と同居することに一部の人から苦情が寄せられたという。 間接的にその話を聞いた佐々木さんは、避難所を出てテント暮らしをする道を選んだ。 佐々木さんは「周りに気兼ねせずに気楽でいい」。 避難生活で体重が70キロから10キロ減った佐々木さんに対し、タマはみんなからエサをもらい丸々とした体形を維持している。 避難所の対策本部は「対策本部大臣」などに任命し、肩書の名札をつけた。 避難所で生活する黒沢節雄さん(56)の愛犬。 車中に泊まり、登下校する子どもらを送迎したり、避難者と散歩をしたり。 愛敬を振りまいている。 (但木汎)• 基地問題に揺れる沖縄。 何が起きているのか• 日本の空襲被害、300枚の写真や映像で• 被爆者はいま、核と人類の関係は…最前線を追う• 全国の鉄道ニュースを集めました• あの日、もしもスマホが…映像・音声で「再現」• 子育て世代向けのニューススタンド• 皇族方の知られざる日常、意外な素顔を紹介します• 京都の最新情報をいち早くお届けします• 阪神支局襲撃事件から30年超を時系列で追う• 「戦争を知らない」沖縄が写真でよみがえる• 原発の新規制基準とは、全国の原発の現状は• 過去に起きた災害を教訓に、将来の災害に備える• いくつになっても成長を願う、働く女子に贈る応援ページ• 東京オリンピックのニュースについてのページです• 被災地の復興の現状をお届けします.

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