ジャニー喜多川 葬式。 【ジャニー喜多川・葬儀】場所は「青山葬儀所」でその理由は?日程はいつかも調査!

ジャニー喜多川さん、12日家族葬 育てた“息子たち”大勢参列― スポニチ Sponichi Annex 芸能

ジャニー喜多川 葬式

ジャニー きたがわ ジャニー 喜多川 生誕 ジョン・ヒロム・キタガワ John Hiromu Kitagawa 漢字表記: 喜多川 擴(きたがわ ひろむ) 1931-10-23 死没 2019-07-09 (87歳没) 死因 解離性脳動脈瘤破裂による 住居 国籍 出身校 (LACC)卒業 国際部(現・)卒業 職業 芸能 活動期間 1962年 - 2019年 (芸能プロモーターとして) 著名な実績 「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」 「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」 影響を与えたもの 、、など 親 父: 親戚 姉: 姪: 受賞 第28回「特別賞」 ジャニー 喜多川(ジャニー きたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名: ジョン・ヒロム・キタガワ John Hiromu Kitagawa 、漢字表記: 喜多川 擴〈きたがわ ひろむ〉、〈6年〉 - 〈元年〉 )は、の・芸能・で、、、ジャニーズ出版、、つづきスタジオの創業者。 は「 ジャニーさん」。 はAB型。 生まれ。 3人姉弟の末子では姉。 その娘で、ジャニーズ事務所の代表取締役になったは姪にあたる。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] (昭和6年)10月23日に・に・米国別院の(第3代主監)で、(昭和21年)2月から(昭和23年)2月まで、プロ野球チーム「(に「金星スターズ」に改称)」のマネージャーだった喜多川諦道の次男として 、生まれる。 両親共に日本人 の日系2世。 日本とアメリカの二重国籍を持っていたため、ミドルネームがあった。 姉は、兄はでの設計もしていただったが、に50代半ばで死去している。 (昭和8年)、喜多川一家はへ渡航し、で生活した。 しかし間もなくして母親が死去 、やがてが勃発すると、子供たちだけでにした。 、(昭和22年)に子供たちだけでロサンゼルスへ帰国し 、現地の高校に入学した。 高校時代にはロサンゼルスの「」にて、ミュージックメイカーのアシスタントとして、を経験している。 ロサンゼルスの高校を卒業後、姉と同じ に進学。 (昭和25年)、が育ての親・と共にアメリカ公演を行った。 そしてロサンゼルス公演の際、父の勤務先だった東本願寺ロサンゼルス別院が会場となったため、ステージマネージメント全体を担当する。 川田の知遇を得ると共に、ひばりとも親しく交流するようになった。 このことが、日本芸能界への進出のきっかけとなる。 (昭和27年)に再来日。 関係の仕事の一環として、当時勃発していたによるにを教授するために、日本でわずか11か月でを習得し、すぐ米軍側のに出向き、1年2か月間に渡って子供たちに英語を教授した。 さらに、再来日後はアメリカ合衆国大使館軍事援助顧問団(MAAG)の職員として勤務。 その傍ら国際部(現在のの前身)に進学し、上智大学を卒業。 大学在学中の(昭和30年)、バンドを結成し芸能界へ参入した。 以降はに永住している。 モットーは「 Show must go on(ショーは何があろうと続けなければならない)」。 ジャニーズ事務所の設立 [ ] 初頭、ジャニーは自分の居住していた・の宿舎「」にて、近所の少年たち約30名で構成された少年野球チームのコーチを務めていた。 そのチーム名は、「オール・ヘターズ」「オール・エラーズ」を経て 、「ジャニーズ少年野球団」となった。 このチームのメンバーには、・小畑やすし・等もおり、応援団にはも居た。 このチームはプロ野球の球団や等に支援されており、後に練習場も池袋にあるのグラウンドへと移行した。 ある日、雨で野球の練習ができなくなり、このチームのメンバーの中からの生徒4名を選抜し映画館に連れて行く。 そして、そこで鑑賞したミュージカル映画『』に一同感動し、エンターテインメント事業を興業することを決意した。 (昭和37年)4月、自身が結成させた野球チームのメンバーである4名の少年により最初のグループである(通称・初代ジャニーズ)を結成する。 最初は東京都・池袋西口にある「新芸能学院(現: 名和プロダクション)」に在籍をしていたが、(昭和37年)6月にを創業 、創業当初はと業務提携し渡辺プロを窓口としていたが、(昭和40年)には事務所が正式に構えられる。 (昭和50年)1月、正式に株式会社として法人登記した。 姉のメリーは、1950年代から東京都・三丁目の円通寺坂入口右手の角にあった「スポット」という名のを経営しており、バーの客だった記者(後に)のと内縁関係となり、1972年(昭和47年)の藤島の離婚成立後に結婚した。 ジャニーがジャニーズ事務所を創業するとバーは廃業をし、事務所の経理を担当するようになった。 男性アイドル事務所として成功 [ ] 日本の芸能プロの草分けともいえるとほぼ同世代であるが、活動の開始は大きく出遅れたこともあり、先行する大手プロダクション群を凌駕し始めたのはに突入してからである。 事務所黎明期の「」「」らに始まり、「」・「」・「」などの3人組アイドルを成功させた。 には、7人組のアイドルグループ「」をデビューさせた。 光GENJIはで踊りながらアクロバティックなライブを行うという、これまでにないアイドルグループとして注目され大きな成功を収めたものの、活動期間は8年とアイドルとしてはやや短命に終わった。 には、「」を個性的なマルチタレント型グループとしてデビューさせた。 SMAPは、光GENJIの路線からさらにグループ性を発展させた路線へと展開し、ライブだけでなくバラエティー番組でも活躍できるアイドルとして注目を集め、かつ短命に終わらない持続性をもったグループとして大きな成功を勝ち取った。 SMAPのデビュー後にも、バンド形式の「」、年齢差のある個性派アイドル集団「」、関西系の二人組ユニット「」、王道的アイドルを目指す「」らが次々にデビューし、SMAPに続くバラエティー番組でも活躍できるアイドルグループとして、着実に成功を収めていった。 には、Kinki Kidsに続く二人組ユニット「」、V6、嵐に続くワールドカップバレーのイメージキャラクターとしてデビューした「」、関西出身者だけで構成される「」、ジャニーズ異色のワイルドグループ「」、メンバー全員が生まれの「」など、個性的なグループを続々とデビューさせた。 には、少年隊以来の3人組ユニット「」、光GENJIを彷彿させるローラースケートを武器にした「」、嵐以来の5人組グループの「」、ジャニーズ初のDVDデビューをした「」、V6同様に年齢差のある「」、ジャニー喜多川にとって生涯最後のデビュープロデュースとなった「」など、これまでの成功事例を取り入れる形で、所属タレントの活躍の場を広げ、の礎を築いた。 死去 [ ] (令和元年)、午前11時30分ごろ、自宅で体調の異変を訴え、救急搬送された。 同日、上にて「ジャニーが緊急搬送され、入院した」という趣旨の書き込みが発信された。 情報はすぐに拡散され、には、がジャニーの緊急搬送について報じていた。 、が「ジャニー喜多川が死去した」という内容の記事を配信した。 同記事には、「ジャニーが死去した」と断定できる情報源について記載されておらず、死去に関する情報についても曖昧な内容であった。 これ以降、ジャニーの容体に関する情報がインターネット上でさらに拡散された。 、ジャニーズ事務所は、ジャニーが解離性破裂によるで倒れ、入院し治療を受けていることを発表。 午後4時47分、の でクモ膜下出血により死去した。 87歳没。 、子会社・の渋谷区に所在する稽古場において「家族葬」が行われ、司会を務めた ・ はじめ「子供達」と称する事務所タレント150名に見送られた 9月4日、に於いてジャニーのお別れの会が開かれた。 二部制で開催され、午前の関係者の部では約3500人の芸能関係者が、午後の一般の部では約8万8000人の一般人が参列した。 事件 [ ] タレントに対する性的行為についての報道と裁判 [ ] ジャニーが同性愛者であり、事務所に所属する男性タレントに対して猥褻な行為を行っているとの噂は、1960年代から散発的に報道されていた。 元フォーリーブスのによる『光GENJIへ』シリーズ(、)• 元の小谷純とやなせかおるによる『さらば!! 光GENJIへ』(データハウス、1989年)• 元ジャニーズの中谷良による『ジャニーズの逆襲』(データハウス、1989年)• による『ひとりぼっちの旅立ち - 元ジャニーズ・アイドル 豊川誕半生記』(鹿砦社、1997年3月)• 元光GENJI候補の木山将吾(山崎正人)による『』(鹿砦社、) など、事務所に所属したタレントらにより事務所の内情を取り上げたいわゆる「暴露本」が出版された。 なお、衆議院議員(当時)・(元・長)が(平成12年)4月13日にこの問題をで取り上げている。 (平成11年)、『』がジャニーズ事務所に関する特集記事、「ホモセクハラ追及キャンペーン 」を掲載し、喜多川が所属タレントに対して行為を行い、事務所では未成年所属タレントの喫煙などがあると報道した。 これらの記事はのでも取り上げられ 、これに対しジャニー側は記事がであるとして、文春に対し1億円あまりの損害賠償を要求する民事訴訟を起こした。 (平成14年)3月27日の一審判決ではは文春側に880万円の損害賠償を命じた。 文春側はこれを不服として東京高裁に控訴した。 (平成15年)7月15日の二審判決では、ジャニー側の所属タレントへの行為を認定した(裁判長)。 このため、同性愛部分のは取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。 ジャニー側は損害賠償額を不服としてに上告したが、(平成16年)2月24日にされ(藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と同性愛行為のが確定した。 『』、『』などの世界各国のメディアでも取り上げられ、この問題をタブー視するなどして報道しない日本のの姿勢を指摘した。 ジャニー喜多川の死去後、海外メディアはジャニー喜多川の訃報を報じる一方で、性虐待についても触れている。 イギリスのメディア「BBCニュース」は過去、事務所に所属していた少年たちから性的虐待の告発が繰り返されたと掲載。 また、日本のTV等の大手メディアではタブー視され報じられないことについても掲載。 フランスの「AFP」は事務所に集まった少年たちを虐待していたという疑惑も浮上したと報じている。 アメリカの「ニューヨーク・タイムズ」では少年たちへの性虐待を認めた東京高裁判決にも触れている。 日本では週刊文春が2019年7月25日号で「本誌しか書けない稀代のプロデューサーの光と影ジャニー喜多川審美眼と「性的虐待」」と題し新証言を報じている。 嵐のメンバーと同年代の元ジャニーズjrがジャニー喜多川の誘いに抵抗したらステージの隅に追いやられた。 ファーストキッスはジャニー喜多川だったことなどをインタビューで答えている。 住居侵入被害 [ ] (平成23年)7月、内の自宅に見知らぬ男が侵入、ジャニーを締め出して30分以上に渡って篭城するという事件が起こった。 ジャニーは34階建てタワーマンションの最上階に居住していたが、この事件による怪我や室内の物品の破損・盗難などの被害はなかった。 逸話 [ ]• ジャニーは所属タレントを呼ぶ時に「YOU」と呼ぶことが多い。 しかし混同するため「ゆう」という名前()のメンバー・に限り、「ヨコ」と呼んでいる。 「YOU」と呼ぶ理由について、「アメリカでは相手をYOUと呼ぶのは普通の事」「タレントの名前を覚えられない時に便利」という2つの理由があると、ジャニー本人が答えている。 そのことを受けては「いやータレントの名前を全部覚えるのは正直無理。 僕の悪い所なんだけどね」と共感していた。 ジャニーが所属アーティストを採用する基準として「顔」以外に、「その子のハートの強さ」も加味して選んでいる。 最近は所属アーティストの髪型が一緒で、特徴が消えてしまうことが不満なようで「髪の毛はにしたい。 坊主はすごくカッコイイよ、みんな」と語っている。 また、身長は170cm以下の子を優先して採用していたが、最近の子は身長が高くスタイルがいいことも分かっているようである。 「は堅苦しいから」とジャニーから敬語禁止令が出ており、所属タレントは皆、ジャニーに対しタメ口で話している。 所属タレントからの呼称は「ジャニーさん」または「社長」。 第二次世界大戦中、にしていたジャニーはに遭遇して必死に逃げ回り、に入れずに橋の下に逃げ込んで九死に一生を得たこともあった。 またアメリカ陸軍軍属としてに赴いたこともあり、その自身の体験を2017年に自身が演出した舞台『ジャニーズ YOU&ME アイランド』で描いたが、それも「(自分が体験した)本当のことを(みんなに)伝えたい」という思いであったという。 ジャニーその人も生前、自社の若手タレントや舞台の出演者たちに自身の戦争体験を話して聞かせるなど『平和』を願い、それを強く訴え続けて来た人物でもあった。 ジャニーは「大の好き」とのことで、年末恒例のテレビ番組『』からが2013年限りで勇退したのを始め、年々が減少傾向があることに関して「大変寂しいこと」であると語っている。 にで幕を開けた舞台「森の石松」主演のの応援のためにと共に翌の123便に搭乗する予定だったが、初日に近藤が開く記者会見に来て欲しいと要請を受けて大阪入りに、少年隊は東京に残った結果、を避けられた。 にへの進出を報道陣の前で表明 するも結局頓挫した。 出演 [ ]• JOHNNYS' World:Top of the J Pops(2013年1月27日、) 受賞歴 [ ]• (平成15年)、第28回「特別賞」受賞。 授賞式にはを代理人として参加させた。 (平成23年)、が「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」と「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」に認定。 ジャニー喜多川はそれまで「自分の写真を決して公開しない人物」として有名であったが、この受賞に際し自身の公開用肖像写真を初めて撮影した。 ギネスブック(日本版除く)を始め、この写真を等マスコミ各社が掲載した(ただし、に姿のため、仔細な肖像は判らない様になっている。 また、ジャニーズ事務所の方針に従い、上では公開されない)。 2012年(平成24年)にも「最も多くのチャート1位アーティストを生み出したプロデューサー」としてギネス認定を受けている。 (令和元年)、「特別音楽文化賞」受賞。 没後に追贈される形となり、同年12月30日の発表会の際には愛弟子のが代理で受け取った。 製作に関わった映画 [ ]• (1974年)• (1981年)• (1981年)• (2019年) など多数。 関連文献 [ ]• あおきひろし『ボクの夢はキミたちが描く夢〜ジャニー喜多川が語るジャニーズ塾の子供たち』メタモル出版、1999年8月。 和泉ヒロシ『ジャニーズ・ファミリー - 裸になった少年たち -』オリオン出版、1976年6月。 『ジャニー喜多川さんを知ってますか』KKベストセラーズ、1997年7月。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 2019年7月10日. 2019年7月12日閲覧。 スポーツニッポン 株式会社スポーツニッポン新聞社. 2019年7月10日. 2019年7月10日閲覧。 日刊スポーツ 日刊スポーツ新聞社. 2019年7月9日. 2019年7月10日閲覧。 NHKニュース 日本放送協会. 2019年7月9日. 2019年7月9日閲覧。 スポーツニッポン 株式会社スポーツニッポン新聞社. 2019年7月10日. 2019年7月10日閲覧。 2019年7月9日. 2019年7月10日閲覧。 日刊スポーツ 日刊スポーツ新聞社. 2019年7月9日. 2019年7月10日閲覧。 2019年7月10日. 2019年7月10日閲覧。 スポーツニッポン スポーツニッポン新聞社. 2019年7月10日. 2019年7月10日閲覧。 産経ニュース 産経新聞社. 2019年7月9日. 2019年7月10日閲覧。 週刊女性PRIME. 2019年7月9日. 2019年7月12日閲覧。 デイリースポーツ デイリースポーツ. 2019年7月11日. 2019年7月12日閲覧。 デイリースポーツ デイリースポーツ. 2019年7月9日. 2019年7月10日閲覧。 BuzzFeed. 2019年7月1日. 2019年7月2日閲覧。 朝日新聞デジタル. 2019年7月1日. 2019年7月2日閲覧。 ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. 2019年7月9日. 2019年7月9日閲覧。 2019年7月10日. 2019年7月12日閲覧。 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2019年7月12日. 2019年7月27日閲覧。 日本語 HTML プレスリリース , 株式会社ジャニーズ事務所, 2019年8月13日 , 2019年8月13日閲覧。 ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポーツ新聞社. 2019年8月13日. 2019年8月13日閲覧。 (日本のスターメーカーの曇り)ニューヨークタイムズ2000年1月30日、カルビン・シムス記者。 (日本の奇妙な音楽産業)オブザーバー2005年8月21日、クリス・カンピオン記者• 『47ニュース』 共同通信 2011年8月17日配信• AllAbout 2015年1月11日配信。 2019年1月12日閲覧。 LITERA 2019年1月12日閲覧• ただし、これには自分に対して敬語を使われると自分の感覚・感性が死んでしまうからダメだ、と憂慮していた側面もあったという。 「」2019年08月11日放送分より• デイリースポーツ 2015年1月3日閲覧• 中日スポーツ. 2019年7月18日. の2019年7月28日時点におけるアーカイブ。 2019年11月29日閲覧。 日刊スポーツ 日刊スポーツ新聞社. 2012年5月4日. 2019年7月10日閲覧。 2012年8月25日. 2017年10月22日閲覧。 日刊スポーツ 日刊スポーツ新聞社. 2013年1月24日. 2019年7月12日閲覧。 スポーツニッポン 株式会社スポーツニッポン新聞社. 2011年9月21日. 2019年7月10日閲覧。 株式会社スポーツニッポン新聞社. 2011年9月25日. 2019年7月10日閲覧。 2012年11月20日. 2019年7月10日閲覧。 スポーツ報知. 報知新聞社. 2019-12-02. 2019年12月3日閲覧。 参考文献 [ ]• 芸能裁判研究班『平成の芸能裁判大全』鹿砦社、2003年10月、• 小菅宏『芸能をビッグビジネスに変えた男「ジャニー喜多川」の戦略と戦術』、2007年3月、• 『アステイオン』85号 、2016年11月29日• 2019年7月10日. 2019年7月11日閲覧。 関連項目 [ ]• - 親戚.

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ジャニー喜多川さん 東京ドームのお別れの会は芸能史上最多の9万人以上が参列|葬儀・葬式なら【よりそうのお葬式】

ジャニー喜多川 葬式

日本初!東京ドームでのお別れの会 東京ドームでの芸能関係者のお別れの会は史上初。 ジャニー喜多川さんが大の野球好きだったことから、東京ドームでのお別れの会が実現しました。 お別れの会は2部制で行われ、11時からは案内状が届いた芸能関係者のみの「関係者の部」、14時からは案内状のないファンの皆さまも参列できる「一般の部」となりました。 関係者の部には、KinKi Kidsや嵐をはじめとする所属タレントのほか、武田鉄矢さんや黒柳徹子さん、爆笑問題、みのもんたさんなど多くのタレントや関係者が参列したほか、内閣総理大臣の安倍晋三さんから弔電も届きました。 また14時からの「一般の部」にでは、21時の終了時点で、88,000人という大勢の方々が参列しています。 ジャニー喜多川さんお別れの会に参列された方々 KinKi Kids お別れの会の後、報道陣の取材に応じてくれたKinKi Kidsのお二人。 東京ドーム開催という大々的なお別れの会に対し、堂本光一さんは「ジャニーさんがこの光景を見たら『やめてよ〜』と言ってると思います。 でも、やっぱり僕らからありがとうを伝えたかった」と語りました。 堂本剛さんも「自分のためにこれだけの人が時間を割いてくれたことを、心苦しく思ってるんじゃないかな」とジャニーさんの気持ちを代弁していました。 「ジャニーさんはどんな存在でしたか?」という質問に対し、堂本剛さんは「家族以上に長く一緒にいた人でもありますし、お父さんのかわりをしてくれたり、友だちみたいにしてくれたりした人」と回答。 また、ひとつ謝りたいこととして「ジャニーさんのものまねをめちゃくちゃやりすぎました。 公認ではありましたが、イジらずにはいられなかったんです」と語り、場を和ませました。 嵐 「ジャニーさんから学んだことは?」との質問に対し、嵐の大野智さんは「あいさつなど根本的なことを全部教わった」と回答。 「Jr. の頃は引っ込み思案だったので、レッスン終わって帰るとき、誰にも見られないように帰っていた記憶があります。 ジャニーさんはそういうのを見逃さない。 『なんでお疲れさまが言えないの?』と言われました。 それからはあいさつを欠かさなくなりました」 櫻井翔さんは、ジャニーさんが「見ている人は見ていてくれているんだな」と実感させてくれた最初の人だといいます。 「Jr. の頃、自分は真ん中にいるタイプではありませんでしたが、あるときジャニーさんが褒めてくれて、その直後から雑誌の取材をいただくなどの機会が増えた。 努力をしていれば、誰かが見てくれているんだと実感させてくれました」 相葉雅紀さんは、ジャニーさんとの印象深い思い出として「オーディション会場に入ったらイスを並べているおじさんがいたこと」だと語り、場を和ませました。 「並べ終わったら『私がジャニーです』と一言。 社長ってこういうことするんだとびっくりしました。 それだけ自分で現場に立って第一線で、死ぬまでずっとそうやってきた方なんだなと思っています」 二宮和也さんは、ジャニーさんから「人間性を深めるためにいろいろなことを経験しなさい」と言われたといいます。 そして、自分たちの世代は「できるかできないか」の判断ではなく、「やるかやらないか」という判断で仕事をすることをジャニーさんから教わった世代なのではないかと語っていました。 松本潤さんは、「自分がいま嵐のライブで(演出などを)中心になってやっているのは、ジャニーさんが小さい頃から『こういうのやりなよ、やったほうがいいよ』とやろうとしていることを後押ししてくれたから」と自分のやりたいことを後押ししてくれたジャニーさんに感謝を述べました。 Say! JUMP〉山田涼介、知念侑李、中島裕翔、有岡大貴、高木雄也、伊野尾慧、八乙女光、薮宏太 〈Kis-My-Ft〉北山宏光、千賀健永、宮田俊哉、横尾渉、藤ヶ谷太輔、玉森裕太、二階堂高嗣 〈Sexy Zone〉佐藤勝利、中島健人、菊池風磨、マリウス葉 〈A. SP〉 林蓮音、和田優希、松尾龍、中村浩大 林翔太、高田翔、寺西拓人、野澤祐樹、室龍太、小川優 (取材:八木麻理恵).

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ジャニーさんの葬式を欠席したジャニーズは誰?まさかあの人が欠席!|SollaStudio

ジャニー喜多川 葬式

日本初!東京ドームでのお別れの会 東京ドームでの芸能関係者のお別れの会は史上初。 ジャニー喜多川さんが大の野球好きだったことから、東京ドームでのお別れの会が実現しました。 お別れの会は2部制で行われ、11時からは案内状が届いた芸能関係者のみの「関係者の部」、14時からは案内状のないファンの皆さまも参列できる「一般の部」となりました。 関係者の部には、KinKi Kidsや嵐をはじめとする所属タレントのほか、武田鉄矢さんや黒柳徹子さん、爆笑問題、みのもんたさんなど多くのタレントや関係者が参列したほか、内閣総理大臣の安倍晋三さんから弔電も届きました。 また14時からの「一般の部」にでは、21時の終了時点で、88,000人という大勢の方々が参列しています。 ジャニー喜多川さんお別れの会に参列された方々 KinKi Kids お別れの会の後、報道陣の取材に応じてくれたKinKi Kidsのお二人。 東京ドーム開催という大々的なお別れの会に対し、堂本光一さんは「ジャニーさんがこの光景を見たら『やめてよ〜』と言ってると思います。 でも、やっぱり僕らからありがとうを伝えたかった」と語りました。 堂本剛さんも「自分のためにこれだけの人が時間を割いてくれたことを、心苦しく思ってるんじゃないかな」とジャニーさんの気持ちを代弁していました。 「ジャニーさんはどんな存在でしたか?」という質問に対し、堂本剛さんは「家族以上に長く一緒にいた人でもありますし、お父さんのかわりをしてくれたり、友だちみたいにしてくれたりした人」と回答。 また、ひとつ謝りたいこととして「ジャニーさんのものまねをめちゃくちゃやりすぎました。 公認ではありましたが、イジらずにはいられなかったんです」と語り、場を和ませました。 嵐 「ジャニーさんから学んだことは?」との質問に対し、嵐の大野智さんは「あいさつなど根本的なことを全部教わった」と回答。 「Jr. の頃は引っ込み思案だったので、レッスン終わって帰るとき、誰にも見られないように帰っていた記憶があります。 ジャニーさんはそういうのを見逃さない。 『なんでお疲れさまが言えないの?』と言われました。 それからはあいさつを欠かさなくなりました」 櫻井翔さんは、ジャニーさんが「見ている人は見ていてくれているんだな」と実感させてくれた最初の人だといいます。 「Jr. の頃、自分は真ん中にいるタイプではありませんでしたが、あるときジャニーさんが褒めてくれて、その直後から雑誌の取材をいただくなどの機会が増えた。 努力をしていれば、誰かが見てくれているんだと実感させてくれました」 相葉雅紀さんは、ジャニーさんとの印象深い思い出として「オーディション会場に入ったらイスを並べているおじさんがいたこと」だと語り、場を和ませました。 「並べ終わったら『私がジャニーです』と一言。 社長ってこういうことするんだとびっくりしました。 それだけ自分で現場に立って第一線で、死ぬまでずっとそうやってきた方なんだなと思っています」 二宮和也さんは、ジャニーさんから「人間性を深めるためにいろいろなことを経験しなさい」と言われたといいます。 そして、自分たちの世代は「できるかできないか」の判断ではなく、「やるかやらないか」という判断で仕事をすることをジャニーさんから教わった世代なのではないかと語っていました。 松本潤さんは、「自分がいま嵐のライブで(演出などを)中心になってやっているのは、ジャニーさんが小さい頃から『こういうのやりなよ、やったほうがいいよ』とやろうとしていることを後押ししてくれたから」と自分のやりたいことを後押ししてくれたジャニーさんに感謝を述べました。 Say! JUMP〉山田涼介、知念侑李、中島裕翔、有岡大貴、高木雄也、伊野尾慧、八乙女光、薮宏太 〈Kis-My-Ft〉北山宏光、千賀健永、宮田俊哉、横尾渉、藤ヶ谷太輔、玉森裕太、二階堂高嗣 〈Sexy Zone〉佐藤勝利、中島健人、菊池風磨、マリウス葉 〈A. SP〉 林蓮音、和田優希、松尾龍、中村浩大 林翔太、高田翔、寺西拓人、野澤祐樹、室龍太、小川優 (取材:八木麻理恵).

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