WWEの番組は、J sportsの日本語字幕版(10日後くらいに放送)にしても、WWEネットワークで見られる番組にせよ、番組中に聞こえてくる言葉は 基本オール英語です。 私自身は、推定2歳児レベルの英会話力しかないので、WWEネットワークを見る時には、基本的に英語字幕をオンにして、それでも時々一時停止して辞書を引くレベルです。 そんなレベルの私でも、• 日本のプロレス的な和製英語と違う言葉• 一般的な言葉だけど、プロレス的文脈では意味が異なる言葉• ビジネス会話ではまず出てきそうにない言葉 がいくつかあることに気づきます。 トシがバレバレですね)。 まあ、レッスルマニア32も近いし、いいタイミングなのではないかと! ただし、英語力2歳児なので少しずつのご紹介となりますが、ご容赦いただければ幸いです。 10年前は犬と同じくらいだったので、これでも進歩しているのです。 基本用語 まず、日本人が番組を楽しむ上で、押さえておくべき言葉から紹介して参りましょう。 tag タッグマッチで、リング内のレスラーがコーナーに待機する相棒と手をパチンと合わせて交代するシーンは、プロレスに縁のない方でも一度は見たことがあるでしょう。 あれ、日本では「タッチ」と言いますが、あちらでは「tag」と言います。 「trying to tag」とか「Tagged!! 」とか「Make a tag」とかいう形で使われてます。 何というか、素直な用語ですね。 当たり前っちゃ当たり前なんですが、リズムの取り方も違ってます。 たとえばホーガンに声援を送る時、日本では「ホ・ー・ガン!(4分休符)ホ・ー・ガン!(4分休符)」となりますが、あちらでは「ホー・ガン!ホー・ガン!」と連続します。 レスラーの名前を呼ぶ以外にも、さまざまなチャントがあります。 例えば…… You suck! 悪役に対するチャントです。 「おまえ最低!」の意味です。 J Sportsの字幕では「最低野郎!」と当てられていますが、カート・アングルだけ「へなちょこ!」という表記です。 何でだ。 This is awesome! 主にリングの上で秀逸な攻防が披露された場合に、称賛のチャントが発生します。 直訳すると「これはすごい」ですが、J Sportsの字幕では「これぞ名勝負!」「これぞ名場面!」など、状況に応じて字幕が当てられます。 意訳しすぎの気もしますが。 Holy shit! 直訳すると「聖なるクソ」ですが、字幕では「クソすげえ!」となかなか趣のある訳し方です。 Cena sucks! で、ジョン・シナという当代ナンバー1人気のレスラー(何でも年間13億稼ぐとか)は子供と女性に応援され、モテない感じの若い男性に嫌われています。 なので、上記のチャントの前半が黄色い声で、後半が野太い声になります。 会場では「Cena sucks! 」と叫ぶ男を子供のファンが睨みつける場面もよく見られ、なかなか楽しめます。 なお「Cena sucks」は前述の「You suck」と同意ですが、三人称単数なので「s」が付きます(蛇足)。 ロック様用語 レッスルマニア32では、ことドウェイン・ジョンソンの出番があるそうです。 彼のpromoは最低10分以上 カンペなしでしゃべるのが当たり前なのですが、スラングを多用する上に造語を使います。 英語に堪能な方だと却ってわからない言葉があると思うので、ご紹介しましょう。 上から目線ですが。 jabroni 元々は、プロレス業界の隠語だとのこと。 ロック自身が「この隠語を堂々と番組で使ったのは俺が初めてだ」と語っています。 」という用法がもっとも多いです。 これはロックの造語で、その後番組名に採用され、今では 辞書にも収録されるようになったという言葉なのです。 arse assが放送禁止のようなので、代わりに使われる言葉です。 ロックだけが使う言葉ではありませんが、使用頻度は恐らく彼が一番です。 まだまだプロレス的な文脈で出てくる独自の英語はたくさんあります。 が、あんまり一気に紹介しちゃうとネタが切れてしまうので、このへんで。
次のリンク 内容を一言でいえば、ライプニッツの評伝です。 ライプニッツといえば最後の万能人と呼ばれ、大天才として知られていますね。 ライプニッツの業績でいちばん僕たちに馴染み深いのは、数学の微分積分ですかね。 あれを発明したのはライプニッツです。 厳密にはニュートンのほうが少し早く思いついていたのですが、僕たちが高校で習う微積分はライプニッツのアイデアです。 本書の特徴は、 スピノザと対比させる形でライプニッツの生涯と思想を語る点。 スピノザはライプニッツの同時代人で、哲学者としてはこの人のほうが有名かもしれません。 人間としての生き様はまったく違い、ライプニッツはなんでもこなし政治にも積極的にかかわるスーパーエリート、スピノザは家に引きこもりレンズ磨きで生計を立てる異端の世捨て人でした。 なぜスピノザと比較する? なぜライプニッツの生涯と思想を解説するために、スピノザと比較するのでしょうか? それは、スピノザがライプニッツにとって最大のターゲゥトだからです。 著者のマシュー・ステュアートによると、ライプニッツの哲学は批評的な性格が強いらしい。 自分のポジティブな確信をバーンと打ち出すタイプではなく、他者の思想を批判、吟味し、総合していく天才。 したがってライプニッツを理解するには、彼がなにを批判しようとしているのかを見るのがいいのです(ちなみにこれはヘーゲルが指摘したことでもある)。 ライプニッツ最大のターゲットがスピノザですから、スピノザをどのように否定していくかを観察することで、ライプニッツの思想が見えてくるわけです。 ライプニッツとスピノザ、どのように対立する? それでは、ライプニッツとスピノザはどのように対立するのでしょうか? 一言でいうと、近代をどう捉えるかで対立します。 スピノザは近代を肯定し、ライプニッツは近代を批判する。 それが思想にも現れると著者は主張するのです。 これが著者の面白いところで、思想を社会や政治と関連させて理解するんですね。 スピノザの思想が近代の肯定になっているというのは、今まで考えたことがなかった気がする。 著者の主張はだいぶ行き過ぎで、たとえばスピノザを近代政治思想の枠組みに閉じ込めるのは無理があると思います。 どう考えてもスピノザはもっと異様な人間で、現代の常識では捉えきれない宗教的次元を秘めているはずですからね。 ただ、著者の言うことに一理あることも確かです。 政治思想の方面から眺めることで見えてくる部分はありますよね。 スピノザの思想 リンク ライプニッツの哲学に行く前に、そのターゲットとなるスピノザの哲学をざっくりと解説します。 スピノザ哲学のコア、それは 神=自然です。 神は自然の全体である。 自然のすべては神である。 そして神=自然から超越するものはなにもない。 汎神論と呼ばれる考え方ですが、これがスピノザ哲学の核心です。 神だけが実体であり、他の存在はすべて、神のパーツにすぎません。 デカルトは神と精神と物質を実体とみなしましたが、スピノザにとっては精神も物質も、神が有する属性の一つにすぎない。 そして神=自然の内部ではすべてがロジカルに関連しあい、そこには偶然もなければ、自由意志もありません。 すべては論理的に、必然として生起する。 スピノザのこの思想は、従来のユダヤ・キリスト教世界観と対比させるとその特徴がよくわかります。 ユダヤ・キリスト教の世界観では、世界から超越する場所に人格神がいて、その神様が世界を創造しますよね。 そしてそのなかで人間が特権的な地位を占め、個人はそれぞれ不滅の個性をもつとされます。 スピノザの思想はこれと真っ向から対立するわけです。 だから彼はユダヤ教から破門され、異端の人となったのですね。 スピノザのあだ名は「無神論者」です。 そして注目すべきことに、著者はこの思想を近代の肯定とみなします。 近代科学の登場により、近代ではユダヤ・キリスト教的な世界観が崩れ、どんどん世俗的な世界観が力をつけてきます。 天国の存在感が薄れるわけです。 スピノザの思想は天国が消え去った世俗世界を聖化するものだ、と著者はいいます。 神=自然は、近代の世界観を肯定する形式として機能するということです。 ライプニッツの思想 リンク ようやくライプニッツの出番です。 彼はスピノザの批判を通じて、スピノザ以上に独創的な、異様な哲学を打ち出します。 ライプニッツは、従来のユダヤ・キリスト教的な世界観を守りたいわけです。 その意味では反動的な面のある哲学者ですね。 しかし普通の神学者がするようにスピノザをただ無視して終わりにするのではなく、ライプニッツはスピノザの思想を取り込み、従来の世界観と調和させようと試みます。 その結果生じたのが、神が可能世界から最善の世界を選択する、予定調和の哲学です。 超越的な神が世界を創造するという図式は、ユダヤ・キリスト教的なものです。 しかしライプニッツの思想においては、創造されうる世界が無数に存在します。 これら 可能世界から神は最善の一つを選び出し、それを創造するのです。 そしてそのように創造された世界の内部においては、スピノザ的な因果律が支配します。 そこには自由も偶然もなく、すべてが必然的に、ロジカルに生起する。 このようにしてライプニッツの哲学は、スピノザの世界観を取り込んでいるのです。 ただスピノザとまったく異なるのは、実体を無数に認める点です。 スピノザは神だけを実体とみなし、その他すべてを神のパーツと考えたのでした。 しかしライプニッツは、実体を複数、それどころか無数に認めます。 この実体を モナドといいます。 このモナドが、あらゆる存在者を構成します。 精神も身体も、モナドから成り立ちます。 モナドは実体ですから、お互いに影響を与え合うことはできません。 他から影響を受けて存在のありようが変わってしまうのなら、それは実体とは呼べないですから。 こうしてモナドは他者と関与することなく、ひたすら自律的にふるまいます。 これをライプニッツは、 「モナドには窓がない」と表現します。 しかしそれならば、なぜ世界に調和が成り立つのでしょうか?たとえば自分の心と身体がバラバラに動くことなく、ほとんどの場合調和しているのはどのようなメカニズムによるのか?なぜ心モナドと身体モナドはハーモニーを生み出せるのか? ライプニッツによると、ここには神の 予定調和が働いています。 どういうことかというと、モナドの内部には、過去から未来にいたるすべての出来事が、あらかじめ書き込まれているというのです。 そして神は、すべてのモナドが協調して動くようにあらかじめ設計しておいた。 したがって、モナドが自律的にふるまっても、結果としてハーモニーが生じるというわけです。 目覚まし時計を例にとって考えてみましょう。 2つの目覚まし時計がある。 あなたはアラームを、同時刻に鳴るようにセットします。 指定した時刻がおとずれると、2つの目覚まし時計は同時に鳴り始めます。 このとき、2つの目覚まし時計は次のように考えているかもしれません。 「僕たちはお互いの相互作用によって、まったく同じ時刻に音を出すことに成功している」と。 しかしこれは事実とは違いますね。 実際には、目覚まし時計が同時刻に鳴るように、神(この場合は時刻をセットした人間)があらかじめセットしておいたのです。 ライプニッツによると、宇宙の出来事はすべてこれと同様のメカニズムで動いているのです。 ライプニッツは近代を超えるか? リンク 『宮廷人と異端者』の著者は、ライプニッツに対してずいぶん否定的な見方をしています。 ライプニッツは時代の流れに負けた敗北者なのだ的な。 しかし本当にそうだろうか?ライプニッツが近代を批判したことはたしかですが、近代の批判が前近代を志向するものとは限らないですよね。 むしろ近代の先を見据えていたのかもしれない。 たとえば柄谷行人は『帝国の構造』のなかで、ライプニッツのモナド論に政治思想を読み取り、そこに彼の先見性を見出しています。 近代国民国家を前提として考えたホッブスやスピノザやヘーゲルとは異なり、ライプニッツはその枠組を超える場所で思索していた。 それはカントの世界共和国を先取りする思想であり、来たるべき時代のヒントが秘められている、というふうに。 僕としてはこっちの方向でライプニッツを読んでみたいと思いますね。
次の中国の外務省は、共産党が「異端者」とみなしている団体を歓迎すべきではないとオーストラリアに伝えるために北京で記者会見を開催した。 マッシモ・テントロヴィーニャ(Massimo Introvigne) オーストラリアのシドニーで活動する法輪功の学習者( — ) 2019年4月11日、中国外務省は北京で。 中国の外交史上ほとんど先例がない、この会見の主な目的は、 が「異端者」()と名指ししている団体を、諸外国が、いかなる方法であっても歓迎したり協力したりしないことを期待しているとオーストラリアに伝えることであった。 記者会見は、シドニーで最も人気のある祝祭の1つ、ジョージ・リバー・フェスティバル(Georges River Festival)の主催者に中国の外交官が圧力をかけ、祝祭のスポンサーから週刊紙、『看中国(VisionTimes)』を除外すべきだと伝えたとオーストラリアのメディアが非難したことに端を発して行われたものだ。 同紙は とつながりがあるから、というのがその除外要請の理由だった。 『看中国』はつながりを否定したが、出来事の最も重要な側面はここではない。 北京の中国外交官は信じられないほどの傲慢な態度で、「法輪功は異端の 」で「中国政府によって公然と禁止されている」ため、オーストラリアの団体は法輪功と協力してはならないと述べたことにある。 中国総領事館は、法輪功の異端的性質について関係国に警告し、誤解や印象操作を受けないようにしたのだ。 それは完全に合法的で正当化できる行動で、「内政干渉」とは何の関係もない、という態度だ。 実際には、「内政干渉」よりもひどいといえる。 無神論的政党である共産党が、どの宗教が正統派であり、どれが異端派であるかを宣言する権利を有すると主張することはよく知られているところだ。 「異端者」とレッテルを貼られた団体は邪教リストに列記され、ひどく迫害される。 今、共産党はそれをさらに一歩前身させた。 それは、ある団体が「異端者」であるという共産党の決定を外国政府に受け入れさせ、自国でそれに従い行動すべきであると主張している点だ。 中国政府と共産党を称賛してやまない『環球時報』は、「中国が法輪功に関するオーストラリアの容認できない態度を叩きのめした」とのに対して、オーストラリアのメディアは中国当局を嘲笑した。 それは至極当然のことである。 共産党は、現代の民主的で世俗的な国が「異端者」を差別しないことを学ばなければならない。 民主的な国は異端とされた者を逮捕したり、拷問したり、殺害したりすることはない、中国は行われているが。 そして間違いないことは、民主主義国家が中国に対して誰が「異端者」なのかを諭したりはしない。
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